テレビの全国ネットワークの成立と藤田まこと

 藤田まことが2月17日に亡くなってから、『てなもんや三度笠』についてなどちょっと調べてみた。
 1962年に大阪の朝日放送の製作で放映開始された『てなもんや三度笠』は、その前年にはじまっていた日本テレビの『シャボン玉ホリデー』とともに、日曜の夕方6時台(『てなもんや』は6時からの30分番組、それに続き6時半からは『シャボン玉』がはじまった)の人気番組として君臨することになる。
 もっとも、当時まだ若手であり全国的な知名度もほとんどなかった藤田を、番組の主役に据えることは大きな賭けだったという。実際、関西では大御所たちが出演を渋ったというし、東京からも、番組開始当初はまだ新幹線もなかったため(東海道新幹線の開業は1964年10月)、なかなかゲストを呼べなかったようだ。演出の澤田隆治、脚本の香川登志緒(のち登枝緒)らは、関西喜劇人協会の会長だった伴淳三郎のもとへあいさつに赴き、大御所たちの出演をとりつけたという話も残っている。
 一方でこの時期は、民放テレビの全国ネットワークが形成されていった時期にあたる。1960年前後には各地方で民放テレビ局が続々と開局*1、それらは在京のキー局を中心とする全国放送網に組み込まれていくことになる*2。ここで、大阪発と東京発の番組が相互に見られる環境も整備されていったわけである。そのなかにあって、『てなもんや』と『シャボン玉』は関東と関西をそれぞれ代表するバラエティ番組として位置づけられる。そして藤田まことは、テレビのネットワークを通じた東西の芸能の交流のなかから初めて生まれたスターであった、ということもできるかもしれない。
 ところで、『てなもんや』が、「当たり前田のクラッカー」と毎回お約束のセリフでスポンサー(前田製菓)の商品を直裁的に示したのに対し、『シャボン玉』は、その番組名とオープニングの映像にシャボン玉を出すことでスポンサー(牛乳石鹸)を暗喩的に示していた。このことは東京と大阪の文化・風土の違いにも思われ、興味深い。

*1:1957年、郵政省が「テレビジョン放送用周波数の割当計画表(第1次チャンネルプラン)」を発表、これを受けてテレビ放送の免許獲得をめぐって熾烈な競争が展開される。ときの郵政大臣田中角栄は殺到する免許申請に対し、それぞれの利害関係を調整しながら大量の予備免許を与え、これらのテレビ局は50年代末から60年代初頭にかけて次々と開局することになった。

*2:その先陣を切ったのは、1959年に発足したラジオ東京テレビ(現TBS)をキー局とするJNN(ジャパン・ニュース・ネットワーク)で、その後60年代を通じて日本テレビ系のNNN、フジテレビ系のFNN、NET(現テレビ朝日)系のANNといった、ニュース協定(その概要はニュース番組のネット、ニュース素材の交換など)を核とするネットワークが発足することになる。なお、朝日放送は当初TBS系列だったが、1975年にNET系へと移行した。