そして私は羽田へ行かうと思ひ立ちました。

きょうは羽田へ行ってきた。というのは、自分のミニコミ誌『ZAMDA』のため現在執筆中の成田空港をめぐる原稿の中で、成田と羽田との比較対照ができないかと考えていて、そのためにはぜひ羽田にも足を運んでおかねばと以前から思案していたからである。まあ取材というにはちょっとおおげさだろう、ただ場所の雰囲気というか空気というものに実際に触れておきたかったし、ここ数週間電車というものに乗ったことがなかったので、一つ気分転換のつもりできょうの午後になってふと行ってみようと思い立ったのだった。
品川から京急空港線に乗り、まずは穴守稲荷駅で下車する。同駅から数分歩いたところに、海老取川にかかる穴守橋という橋がある。この橋は1967年10月に当時の首相・佐藤栄作南ベトナム訪問を阻止するため集まった学生たちと機動隊が激突したいわゆる第一次羽田闘争の現場の一つで*1、当時の記録写真にもよく出てくる。また、この事件は初めて学生たちが角材やヘルメットで武装したという点で日本の学生運動史に一つのエポックを画すとともに、衝突のさなか18歳の京大生が死亡したことでも知られる*2。翌68年からは全国各地の大学で学園闘争が激化することになるが、この事件はそうした状況の火蓋を切ったできごとだともいえるだろう。そんな事件の現場へ実際に赴いてまず思ったのは、意外と小さいなということだった。写真で見るかぎりはもっと大きな橋だと――たとえばJR御茶ノ水駅前の神田川にかかる聖橋ぐらいの規模はあるのではないかと勝手に想像していたのだが。その上、橋のかかる川には漁船らしき小船が何艘も浮かんでいて、やけに牧歌的である。稲荷神社があり古びた住宅の密集するこの地域はもともと(当然35年以上前のあの時代にあっても)下町的情緒の漂う町だったのだ。しかし川を越えるとそこには広大な国際空港の敷地が広がっている。その風景のギャップが、何だか奇妙だ。
とはいえ、この橋から空港のターミナルビルまではまだ少し距離がある。一体なぜ学生たちはここでデモを行なったのだろう? それについては帰ってからネットで調べてみてようやくわかった。もともと橋を渡ってすぐの場所にあったターミナルビルは、空港の拡張工事によって93年にさらに東京湾寄りに移転しているのだ。穴守橋のすぐ南東にある京急東京モノレールの地下駅も、以前は羽田空港駅と呼ばれていたが、現在は両線とも新ターミナルへ延伸しているため現在では天空橋駅と改称されている。ということは、かつては空港への重要なルートであったはずの穴守橋もいまではほとんどその役割を終えているということか(空港敷地内への運搬車両はこの橋をいまでも頻繁に行き来しているようだが、人の流れは住民以外ほぼこの地域を素通りしている)。このことは羽田闘争の現場としての羽田がすでに消失しているという事実を端的に示しているように思う。いや、羽田闘争だけではない。ビートルズが来日の際に降り立った羽田も、あるいは中上健次が肉体労働に従事した羽田も、はちみつぱい時代の鈴木慶一たちが名曲「塀の上」で歌った羽田も、はたまた山田太一作のドラマ(NHK放映の『男たちの旅路』シリーズの一編「シルバーシート」)の中で志村喬演じる老人が若き日の洋行体験を懐かしむために訪れる羽田も、すべては空港ターミナルの移転によって過去のものとなったのだ*3。それは一言でまとめるなら、高度成長期の象徴としての羽田の消失ということになるだろうか(それに対して移転した現在の羽田空港は経済のグローバル化時代を象徴している?)。
ちなみに、先述した羽田と成田の比較対照にあたって、一つだけ興味深い事実をメモ程度に記しておくと、敗戦後の占領下には米軍に接収されていた羽田空港が、1952年のサンフランシスコ講和条約発効により返還されてから1978年の成田開港まで名実ともに日本の表玄関だった期間と、成田空港が開港してから2004年に民営化されるまでの期間は、奇しくもまったく同じ長さ、26年間である。そのちょうど折り返し地点である1978年を中心に時代の変遷を捉えられないか、目下のところ思案しているところなのだが、さてさて……。
きょうはそのあと、京急羽田空港まで行き、屋上の展望デッキなどでしばらくすごす。成田よりも羽田のほうが展望デッキのスペースは広く、湾岸ということもあってムードがあるというか、そんな感じがした。帰路は東京モノレールで浜松町まで出る。

*1:この騒乱の中ベトナムに飛び立った佐藤栄作だが、訪問中に恩師・吉田茂の訃報を伝えられ急遽帰国の途につく。

*2:なお、佐藤首相は翌月にも小笠原諸島の返還協議のため訪米しているが、この際にも羽田周辺で訪米阻止闘争が展開された(第二次羽田闘争)。ちなみにこの時、法政大学の部隊を指揮したのが糸井重里(当時19歳)だったりする。

*3:しかしこうした事物などから羽田空港の歴史を文化誌的に考察するような仕事はこれまでにあるのだろうか?