丹下健三と黒澤明

最近、たまたま鈴木博之石井和紘の『現代建築家』(晶文社)を引っ張り出してきて読んでいたら、石井和紘が、丹下健三を戦後日本を代表するもう一人の芸術家と並べて論じていて面白かった。その芸術家とは黒澤明である。

 丹下健三黒沢明の共通点はいくつか挙げられるであろう。両者ともに、戦後の日本文化に貢献し、しかもそれが広く国民大衆レベルまで浸透し、その上で国際的な評価を受けていっており、また、最近は実際に海外での仕事にも携わっている。
 丹下健三黒沢明は、その作品構成のプロットが実に単純明快であり、しかも、陰影が細やかで、日本的な質を持っていた。丹下健三のひとつの大きな価値は、対社会への趣旨説明の明快さであり、それは、とりもなおさず、作品自体の計画の構成が明快だということである。黒沢明の場合も、たとえば『七人の侍』をとりあげても、話の筋は誠に単純明快である。この映画があとで、いくつもの海外版のイミテーションを生んだように、外国人にもわかりやすいプロット立ての明快さ、豪快さを黒沢明は持っている。それは、アメリカの西部劇にも匹敵するプロットの明快さであり、しかも、黒沢明ジョン・フォードにも優るとも劣らぬ人間描写、ローカリティを持っている。
 丹下健三がコンセプトを持った建築家であるのは、こうして、社会的に説明できるプロットの明快さの故であり、ひとつひとつの建築のプロットを説明できるところにあり、またその体質の若さもそれによるのだと思う。だから、黒沢明丹下健三もプロットの明快さと、ローカリティの陰影の襞の深さは実は表裏の関係にあるのだと私は考えている。もっとも巨匠自身はプロットの明快さのほうを意識しているのかも知れないが。
 丹下も黒沢も、群集に対して目を開いた作家であったことは忘れてはならないだろう。また、プロットも大いにそれに依っているのだと思う。丹下健三における「都市」を、私はそう実感している。群衆は作品の主軸を構成する要素であるが、それはけっして画一的なマスにならず、それぞれが生き生きとしているのだ。広島ピースセンターの群集俯瞰写真や、七人の侍の戦闘シーンを思えばうなずけるであろう。
 黒沢明丹下健三も、作品はカラーよりも白黒で撮影したほうが良いように思われる。白黒のほうがリリカルになる。物質的な豊かさを出しがちなカラーフィルムより、白黒の緊張感のほうがよい。また、国内で商業資本と対立して自説を押し通す黒沢明の強さも有名だったが、丹下健三のいくつかの建築は、はっきりとナショナル・プロジェクトでなければ実現できない性格のものだった。予算ワク内で仕事をするなどとてもできない相談だったろう。黒沢明が国内での仕事の時期、東宝との蜜月時代が終った時にひとつの試練の時期を迎えたのは周知のことだが、丹下健三にも類似の難局はあったのだろう。そして両者ともそれを克服して今日を築いている。
 ―石井和紘丹下健三 国際性と地域性の諸様相」(鈴木・石井『現代建築家』晶文社、1982年)

参考までにつけ加えておけば、黒澤は60年代後半にハリウッドから請われ『暴走機関車』『トラ!トラ!トラ!』を手がけるもいずれも途中で頓挫、70年の『どですかでん』以後は5年にわたって沈黙し(その間自殺未遂騒動を起こす)、75年にソ連映画デルス・ウザーラ』で復活を果たす。一方、丹下は大阪万博会場のマスタープランを手がけるかたわら、65年に旧ユーゴスラビア(現マケドニア共和国)のスコピエの都市計画を、67年にニューヨークやサンフランシスコ、イタリアのボローニャの再開発計画を手がけたのを皮切りに、70年代は中東など主に海外を活動の場として活躍している。
このように共通点の多い両者だが、意外と言うべきか、あまり接点はなかったように思う。たとえば丹下と、彼の設計した旧都庁舎の壁画を手がけたり(この壁画は旧都庁の取り壊しの際には庁舎と運命をともにした)、あるいは同じく彼の設計した大阪万博・お祭り広場の大屋根を太陽の塔でぶち抜いた岡本太郎とのあいだに見られるような関係を、丹下と黒澤のあいだに見出すことはできない。接点を持つ可能性があったはずの東京オリンピックの時も、丹下は国立屋内総合競技場を設計したが、黒澤は一旦は任された五輪の記録映画の監督を市川崑に譲って降板している。
いや、それでも唯一この二人がすれ違った時期があるらしい。草柳大蔵の『実力者の条件』(文春文庫、1985年)によれば、丹下は東大入学前の浪人中、“徴兵逃れ”のため日大芸術学部の映画学科に在籍していたのだが、まさに同時期の日大芸術学部には黒澤明も在籍していたという*1。どうやら丹下は、もし東大に入学できなければ映画監督になるつもりでいたようだ。果たして彼が映画監督になっていたとしたら、どんな作品を撮ることになったのだろうか*2

*1:とこの本にはあるのだが、黒澤の公式プロフィールでの最終学歴は京華学園中学であり、ネットで調べても彼が日大に在籍したという記述は見つけられなかった。

*2:ちなみに丹下健三は1913年生まれで、黒澤明は1910年生まれとほぼ同世代にあたる。さらにいえば丹下の東大建築学科での一つ上の先輩には詩人の立原道造(ただし年齢でいえば丹下より一つ年下)がいる。