通産官僚たちの自動車政策(1)「国民車構想」の虚実

 今月5日より、城山三郎原作のドラマ『官僚たちの夏』がTBSの日曜劇場の枠で始まった。その第1回の題材となっていた通産省の「国民車構想」について、気になったのでちょっと調べてみた。
 「国民車構想」とは、1955年、通産省が国内の自動車産業育成のために提示したものだ。その草案は、「国民車」の条件として《(1)4人乗り(または2人乗り100キログラム以上積み)、(2)最高時速100キロメートル以上、(3)平坦(へいたん)路を時速60キロメートルで走った場合1リットルの燃料で30キロメートル以上走れること、(4)大修理なしで10万キロメートル以上走れること、(5)月産2000台の場合15万円以内でつくれること、材料費10万円、工数70時間以内、エンジン総排気量360〜500cc、車重400キログラム以下》(高島鎮雄「軽自動車」『日本大百科全書』小学館)を掲げるとともに、各メーカーの参加を募り、審査の上、最終的にもっとも優秀な車を試作した企業に資金を助成するというものだった。
 とはいえ、「国民車構想」は通産省が正式に発表したものではなく、ドラマの公式サイトで当時の同省の自動車課技官(川原晃)の証言として紹介されているように、《省内での組織決定を待たずに、通産省幹部が構想案を、新聞記者の目に付きやすいよう、わざと机上に放置し》、《いわゆる、意図的に情報を漏らす“リーク”》というかたちで世間に出たものだった。
 この“発表”を受けて、自動車業界は歓迎するよりむしろ当惑したという。上記サイトではその理由を、《戦争で多くの優秀な技術者を失った日本に、そんな車の開発が可能なのか…という思いがあったのです》というふうに説明しているが、それはあくまでも表向きの理由。その本音は、《最終的に特定の一社だけに資金を助成し、生産を集中させるということ》(NHK取材班『NHKスペシャル 戦後50年その時日本は 第1巻』日本放送出版協会、1995年)への不満だった。
 結果からいえば、「国産車構想」はあまりの騒ぎを理由にあっけなくとりさげられている。しかし『戦後50年その時日本は 第1巻』にも書かれているように、《この国民車構想は、自動車産業界に大きな影響を与えることになった。通産省が、個人向けの乗用車の開発に本腰を入れ始めたという事実は、自動車産業の将来性を保証したことにもなり、その後の発展の起爆剤ともなっていくのである》というのは、たしかに一面では事実であろう。実際にこれ以降、1950年代後半から60年代にかけて、トヨタや日産といった既存のメーカーのみならず、再参入の鈴木自動車工業(現スズキ)を含む、富士重工業東洋工業(現マツダ)、新三菱重工業(現・三菱自動車工業)、ダイハツ工業本田技研工業などといった新規メーカーが続々と乗用車生産に乗り出している。
 とはいえ、「国民車構想」に対し自動車業界が当惑した本音からもうかがえるように、通産省は各社間の自由競争によって自動車産業を育てようとしたわけではけっしてない。まったくその逆で、同省はあくまでも生産する会社を数社に集中させた上で、同産業の再生を図ろうとしていたのだ。通産省自動車課では「国民車構想」以前から、乗用車を生産する会社はトヨタと日産の2社だけでよく、それ以上の参入はかえって自動車産業の自立の妨げになると見ていたという。
 とすれば、先のドラマで描かれていたように、通産官僚が「アケボノ自動車」なる町工場(「かつて戦闘機をつくっていた」という設定から察するに、中島飛行機を前身とする富士重工業あたりがモデルなのだろう)に乗用車開発を勧め、支援を行なうなんてことは絶対にありえないだろう(なお、城山三郎の原作小説をざっと確認したところ、「国民車構想」のくだりは出てこなかった)。
 こうした一部のメーカーにしか乗用車の生産を認めない通産省の姿勢は、その後もかたちを変えて引き継がれていくことになる。
つづく