通産官僚たちの自動車政策(2)佐橋滋vs.本田宗一郎

承前
 1960年、ときの岸信介内閣(ちなみに岸は戦前、通産省の前身である商工省の官僚時代に、自動車の国産化を促すべく法整備*1を手がけているのだが、その話はここでは省く)が「貿易・為替の自由化」に踏み切って以降、通産省は政府の基本方針に沿って計画づくりを進めていた。
 通産省内において、日本の自動車産業、とりわけ乗用車生産に関しては、自由化が実施化され外国車の輸入制限が撤廃されればたちまち立ち行かなくなるだろうという悲観論が大勢を占め、その対策として「専門生産体制の確立」なる構想が持ち上がる。
 この構想は、国内自動車メーカー8社を「(1)普通乗用車、(2)高級車、スポーツカー、ディーゼル車、電気自動車などの特殊乗用車、(3)軽自動車」の3つのグループに分けて、各グループが特色を生かした生産体制をとる、というものだった。そのためには、各社が生産の重点を上記3つのうちどれか1つに絞り込み、ほかの部門からは撤退するか、手を出させないようにする必要があった。
 当然、通産省のこの構想には自動車業界から「官僚による産業統制ではないか」として猛反発が起こる。そのため、通産省はこの構想を断念せざるをえなかった。
 だが、その後も通産省は、重工業局長だった佐橋滋――彼こそ、『官僚たちの夏』の主人公・風越信吾のモデルである――を中心に貿易自由化へ向けて1963年2月には「国際競争力強化法案」を策定、自動車は特殊鋼や石油化学とともに「特定産業」に指定され、業界の再編成・系列化が求められた。通産省はまだ自動車産業の国際競争力を高めるためには、メーカーの数を絞り込まなければならないという考え方を捨てていなかったのである。
 そのなかにあって、当時まだオートバイ製造に専念していて乗用車メーカーとしては認められていなかった本田技研の社長・本田宗一郎通産省に真っ向から勝負を挑む。本田は以前より進めていた四輪車製造開発を、通産省からの中止要請にもかかわらず続行し、同1963年の夏から秋にかけて、軽四輪トラックと小型スポーツカーをあいついで発売したのだ。
 これと前後して同年3月、通産省の「国際競争力強化法案」は各界の反発を受けていくつか修正を加えた上で、その名も「特定産業振興臨時措置法」と改められた。しかし翌年にかけて三度も国会に提出されたものの、結局一度も採決に持ち込まれないまま廃案となっている。
 その後、1966年になって、本田と佐橋は直接顔を合わせる機会があった。本田と懇意にしていた赤沢璋一という通産官僚が、このあたりで関係修復をということで一席設けたのだ。佐橋はこのとき省のトップである事務次官にまでのぼりつめていた。
 この席で、いずれ劣らぬ強烈な個性の持ち主である両者は大ゲンカをしたという。以下、そのときの両者のやりとりを、塩田潮『昭和をつくった明治人 下』(文藝春秋、1995年)より引用する。まず口火を切ったのは本田だった。

 本田は、一人で長広舌を振るった。
「あなた方は、国内の乗用車メーカーは二つでも多すぎるとおっしゃる。だから、小さいところは合併させて再編成しなければ自由化に太刀打ちできないと言う。しかし、私は、会社の図体を大きくするだけでは競争力はつかないと思う。小さくても独創力のある会社のほうが競争力はあります」
 (中略)
 佐橋は、聞くともなく杯を傾ける。本田はさらに言葉を継いだ。
「あなた方はいつもあれこれと口を出してくる。株主の意見なら耳を傾けなければなりません。しかし、政府は私たちにとって株主でもなんでもありません」
 黙って聞いていた佐橋が口を開く。やんわりと反論を始めた。
「あなたは一企業の立場だが、私どもはいつも天下国家の立場に立ってものを言っているんです」
 一企業と言われて、本田はむっとなった。逆に一発かましてやろうと思い、高飛車に出た。
「私に本格的に四輪車をやらせたら、あっというまに世界一流の会社にしてみせます。トヨタや日産を追い抜くなんて、わけはありませんよ」
 (中略)
 佐橋は本田がまくしたてる自己流の論理が癪に障った。相手が喋り終わるか終わらないうちに反撃に出た。
「生意気なことを言いますな。そんなにおっしゃるなら、トヨタでも日産でも社長にしてあげますから、ご自分でやってみたらどうですか」
 (中略)
トヨタや日産の社長になるのはいいけれど、初めから全面的に引き受けて、好きにやらせてもらわなければ……」
 相手が監督官庁のトップだからといって、本田は負けていない。
「ばかなことを言うんじゃありませんよ。鍛冶屋から自動車屋になるのに何年かかったか、お忘れじゃないでしょう」
 佐橋は真っ赤な顔で吐き捨てるように言った。本田の傍若無人の言い草に、すっかり腹を立てている。

 もっとも翌日、本田は赤沢を通して佐橋に詫びを入れ、佐橋も反省の弁を口にしたことで両者の対立は氷解、《以後、良好な関係がずっと続くことに》(塩田、前掲書)なったというのだが。それでもこの一件からは、本田がいかに通産省の「行政指導」に不満をつのらせていたかがよくわかる。なお、ホンダはこの年の10月、初の量産型軽自動車「N360」を発売し、本格的に乗用車生産に乗り出した。
 それにしても、この本田と佐橋の罵り合い、ぜひドラマで再現してくれないものだろうか。

*1:1936年に成立した「自動車製造事業法」。同法は国内の自動車産業の保護と育成を意図したもので、国産メーカーとしてトヨタ(当時は豊田自動織機の自動車部)と日産の2社が指定された。