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2008年物故者たちをめぐるストーリー

 今回、今年一年に亡くなった人たちを振り返る、というテーマをいただいた。とはいえ、ただ名前を時系列に列挙するだけでは味気ない。そこで、ここは物故者たちになにかしらの関連性を見出しながら、語ってみようと思う。あくまでも僕の勝手な人選なので漏れも出てくるだろうが、その点はあらかじめご容赦願いたい。

 北京五輪が盛大に行なわれるさなか、中国元首相の華国鋒(8/20。以下、日付は故人の命日を示す)が亡くなった。その華国鋒から実権を奪った蠟小平が改革開放路線を始めたのはちょうど30年前のこと。この政策が本格化するとともに、中国国内では西側諸国の流行歌が紹介されるようになり、なかでも遠藤実(12/6)が作曲した「北国の春」は歌詞を翻訳されて人びとに愛唱されたという。

 北京五輪といえば、野球の日本代表チームで投手コーチを元広島東洋カープ大野豊が務めた。その大野をはじめ衣笠祥雄高橋慶彦達川光男などカープ黄金期の名選手を発掘し、「スカウトの神様」と呼ばれたのが木庭教(5/23)だ。今年はまた、1975年に開幕から3週間で監督を辞任しつつも、チームの帽子の色を現在の赤に変更し、同年のカープ初優勝の基礎をつくったとも評されるジョー・ルーツが亡くなっている(10/20)。

 カープが初優勝を達成した頃、同球団の親会社である東洋工業(現・マツダ)は深刻な経営危機を迎えていた。その再建のため住友銀行から出向し副社長に就いたのが村井勉(10/30)だった。彼は東洋工業を立て直すと、さらにアサヒビール社長として同社の再建に尽力、1987年には新たに誕生したJR西日本の初代会長に就任する。

 JR西日本を含むJRグループ7社は国鉄の分割民営化によって発足したわけだが、杉浦喬也(1/16)は最後の国鉄総裁としてその幕引きを果たした。一方、国鉄内部で民営化を推進した一人である山之内秀一郎(8/8)はJR東日本の初代副社長に就任、のちには会長も務めた。山之内はまた、『新幹線がなかったら』など一般向けの鉄道本も著している。『私鉄探検』の著者である僕としては、山之内以外にも、鉄道史研究の第一人者として多くの著作を残した原田勝正(4/7)と中川浩一(8/19)の名も忘れがたい。

 ところで、今年の物故者を振り返る上で特筆すべきは、放送史に大きな業績を残した人が目立つことである。

 たとえば、元NHKアナウンサーの藤倉修一(1/11)は、敗戦直後に始まった「街頭録音」の専属インタビュアーのほか、ラジオの人気番組『二十の扉』や最初期の紅白歌合戦などで司会を務めた。あるいは宇井昇(3/18)は1951年、日本初の民放・中部日本放送(名古屋)の開局第一声を担当したアナウンサーである。同じ年にはNHKラジオ体操の第一体操が服部正(8/2)の作曲により装いも新たに再開された。やがて放送の主役はラジオからテレビに移る。1958年には川内康範(4/6)原作の『月光仮面』が現在のTBSで放映開始され、テレビが生んだ最初のヒーローとなった。

 テレビ番組制作の現場で活躍したなかでは、紅白歌合戦や『夜のヒットスタジオ』などの人気番組を手がけた放送作家の塚田茂(5/13。彼については亡くなる直前に当メルマガに寄稿した「放送作家のあがり方」でも触れた)、TBSの同僚らとともに番組制作会社の草分けであるテレビマンユニオンを設立した村木良彦(1/21)、フジテレビで『ひらけ!ポンキッキ』を手がけ、のちに日本テレワーク設立に参加した野田昌宏(6/6)、NHKディレクターとして大河ドラマや大型ドキュメンタリーの原型をつくった吉田直哉(9/30)、それから朝日新聞社を退職後ニュースキャスターに転身し、テレビを代表するジャーナリストとなった筑紫哲也(11/7)といった人たちが鬼籍に入っている。テレビ業界ではまた、フリーアナウンサー川田亜子が29歳で自殺するという痛ましい事件もあった(5/25)。

 上記のうち吉田が1965年に演出した大河ドラマ太閤記』では、まだ新国劇若手俳優だった緒形拳(10/5)が秀吉役に抜擢され、出世作となった。また、野田の手がけた『ポンキッキ』は、アメリカの子供番組『セサミ・ストリート』の日本版として始まったものだが、ガチャピン(のモデルは野田自身……というのはテレビ番組『トリビアの泉』でも紹介されていた)とムックというオリジナルキャラや、大ヒット曲「およげ!たいやきくん」が生まれるなど、本家とはまた違った道を歩んだ。このあたり、評論家の加藤周一(12/5)が提言した「日本文化の雑種性」の表れともいえるかもしれない。

 テレビで活躍した人物としてはもう一人、『ポンキッキ』と並び子供たちに親しまれたNHKの『みんなのうた』で、数々の名作を手がけた作曲家の福田和禾子(10/5)もここでぜひあげておきたい。

 さて、村木良彦や吉田直哉の没後に放映された追悼番組では、主にテレビドキュメンタリーでの業績にスポットが当てられていた。そんな彼らに対し、土本典昭(6/24)のように、「自主製作・自主上映」を前提にドキュメンタリー映画を撮り続けた存在も見逃せない。

 戦後日本のドキュメンタリーを語る上では、映画『東京オリンピック』もまたはずせない作品だが、その総監督を務めた市川崑(2/13)は、アニメーターをふりだしに、戦後は劇映画の傑作を多数残したほか、CM、テレビドラマと幅広いジャンルで活躍した、まさに映像の時代が生んだ巨匠だった。

 市川崑が92歳の大往生だったのに対し、同姓の映画監督・市川準は59歳で突然逝った(9/19)。個人的にはその劇映画以上に、「タンスにゴン」「禁煙パイポ」といったCM作品が記憶に残る。その数日前に訃報が伝えられた野田凪(9/7)もまた、CMやミュージックビデオで映像の面白さを味わわせてくれた。

 映像時代の申し子といえば、フランスの作家、ロブ・グリエ(2/18)のヌーボー・ロマンなどと呼ばれた一連の小説作品における徹底した客観的な視覚描写は、やはり映画の影響を抜きには語れないだろう。彼自身、『去年マリエンバードで』の脚本をはじめ、何本かの映画を監督した映像作家でもあった。

 映像メディアの影響は美術の世界にもおよんだ。アメリカの美術家・ラウシェンバーグ(5/12)は、テレビやグラフ雑誌などを通じて流布されるイメージをそのままキャンバスにちりばめてみせ、ポップアートの先駆けとなった。アメリカでポップアートが全盛を迎えていた60年代には、日本ではあるビジュアル雑誌が100万部を突破する。その雑誌、『週刊少年マガジン』で編集長を務めた内田勝(5/30)は、「巨人の星」「あしたのジョー」などの名作を送り出した。同誌1970年正月号の巻頭特集「劇画入門」における「一枚の絵は一万字にまさる」という宣言は象徴的である。

 まさにその時代の『マガジン』に「天才バカボン」を連載し、ギャグをとことんまで追求した赤塚不二夫も、長い闘病の末鬼籍に入った(8/2)。同じく長い闘病生活の末に亡くなった人物としては、歌手のフランク永井(10/27)も思い出される(そのヒット曲「有楽町で逢いましょう」の歌碑が建てられたのは今年7月のことだ)。

 ちなみに、赤塚マンガの人気キャラの一つである不屈の猫・ニャロメは、60年代末の東大闘争において最後まで抵抗を続けた全共闘の学生たちに触発されて生まれたものだという。このとき事態を打開するため、東大構内への機動隊導入を要請したのは、当時の学長代行・加藤一郎(11/1)だった。

 東大闘争が60年代を象徴する事件だとすれば、三浦和義(10/11)の「ロス疑惑」と宮崎勤(6/17)の連続幼女誘拐殺人事件は80年代の象徴的な事件だった。いずれの事件も、メディアが彼ら当事者に与えた影響、また彼らをめぐる報道をも含め、現在までいたるさまざまな課題を残した。

 80年代といえば、バブル景気の発端といわれるプラザ会議(1985年)に出席した当時の日銀総裁澄田智(9/7)も今年死去している。くしくもというべきか、彼の死の翌週には、リーマン・ブラザーズが経営破綻し、アメリカ発の金融危機が世界中をかけめぐった。

 そのさなか、今年度の文化勲章に、金融工学で用いられる価格方程式の基礎となる公式を発案し、「ウォール街でもっとも有名な日本人」と呼ばれた数学者・伊藤清(11/10)が選ばれている。

 ここへ来て円高も加速している。そもそも現在の変動相場制は、1971年のアメリカのニクソン政権のドル防衛策に由来する。同政権はその3年後、ウォーターゲート事件で崩壊するが、そのきっかけとなったワシントンポスト紙のスクープは、「ディープ・スロート」と呼ばれる情報源からもたらされた。後年、その正体として元FBI副長官のマーク・フェルト(12/18)が名乗りをあげている。なお、この“情報源”を意味する隠語は、ジェラルド・ダミアーノ(10/25)が監督したポルノ映画のタイトルからとられたものだ。

 アメリカでのウォーターゲート事件に対し、日本政界に疑惑が持ち上がった事件としてロッキード事件がある。この戦後最大の疑獄事件は1976年、米上院公聴会での当時のロッキード社副会長・コーチャン(12/14)の証言により発覚し、田中角栄元首相の逮捕にまで発展したのは周知のとおりだ。

 最後に、月本裕(1/9)、草森紳一(3/20)、鈴木芳樹(5/25)、山口由美子(6/18)、島村麻里(8/24)といった、主に雑誌、あるいはネットを舞台に筆を振るったユニークな書き手たちの名前をあげて、本稿を締めたい。

 とりわけ草森、鈴木、島村の各氏は、面識はないものの知人の編集者を通じていろいろと話を聞いてるだけに(草森氏を除くお二人は当メルマガの寄稿者でもあった)、とても他人事とは思えない。それにしても、中国の古典に造詣が深く、文化大革命でのプロパガンダについての研究も残した草森氏が、もし北京五輪を見ることができたら、一体どんな感想を抱いただろうか?

 ……と、話がちょうど一回りしたところで、本稿でとりあげた人びと全員にあらためて哀悼の意を表したい。合掌。
  (初出 「週刊ビジスタニュース」2008年12月24日)

 物故者を振り返る5年分の記事、大晦日の本日は2008年分を再録します。これで最後です。2009年以降、今年までの記事一覧は以下のとおり。

 今年も読んでくださり、ありがとうございました。来年も何卒よろしくお願い申し上げます。では、みなさま、よいお年を!

現代史のなかの2009年物故者たち

 おそらく多くの人が思っていることでしょうが、今年は例年になく各界を代表する人物たちの訃報があいつぎました。

 今回、昨年に続きこの一年間の物故者を回顧するにあたって、文化人類学者の川喜田二郎(7/8。以下、日付は故人の命日を示します)の考案した「KJ法」などを使ったりしていざ整理にとりかかったものの、あまりにもとりあげるべき人物が多い上に、各人同士との接点がいくつもあったりして、かえって収拾がつかなくなってしまいました。

 しかしこの収拾のつかなさこそ、人と人とが、事象と事象とが複雑に絡み合った現代という時代の反映なのかもしれません。そこで、ここはあえて収拾のつかないまま、今年亡くなった人たちから接点を見出しつつ、2009年とはどんな年だったのか、さらには彼ら彼女らの生きた時代を振り返ってみたいと思います。

 今年は、日本とアメリカでの政権交代や昨年来の世界同時不況など、時代の変わり目を感じさせるようなできごとがあり、また、昭和や冷戦の終焉から20年を迎えるなどさまざまな節目の年でもありました。今年7月にはアメリカの宇宙船・アポロ11号による人類初の月面着陸から40年を迎えています。

 ちょうどアポロ11号が月に向かっているさなかの1969年7月18日、地上では米上院議員エドワード・ケネディ(8/25)が自動車事故を起こし、同乗の女性が水死したにもかかわらず現場を立ち去ったため起訴されていました(のち州法廷で禁固2カ月の有罪判決)。そもそも人類を月に送るという計画は、エドワードの兄であるジョン・F・ケネディが大統領在任中に提唱したものです。そう考えると、この事件はいかにも間が悪すぎました。

 アポロの月旅行は、アメリカの小説家、ジョン・アップダイク(1/27)の『帰ってきたウサギ』にも中心的メタファーとして登場します。同作を含む「ウサギ」4部作と呼ばれるシリーズの後半では、主人公のハリーが妻の父からトヨタの代理店を引き継ぎ成功を収め、80年代半ばには息子に家業を譲って隠居します。もちろん、ここには70年代以降の日本車の“侵略”という歴史的事実が背景にあるわけですが。

 自動車は20世紀における大量消費社会のシンボルでした。イギリスの小説家、J.G.バラード(4/19)はアップダイクよりもっと過激に、自動車事故でしか性的興奮を得られなくなった人々を描いた『クラッシュ』などの作品を発表しています。日本のノンフィクション作家の上坂冬子(4/14)も、戦後まもない時期のトヨタ自動車での勤務体験を記録した『職場の群像』でデビューしています。

 コピーライターで「日本デザインセンター」の創立メンバーでもある梶祐輔(10/4)は、トヨタの広告を40年近く手がけた、日本における自動車広告の第一人者でした。たとえば「白いクラウン」(68年)は、それまで黒塗りの高級車というイメージのあったクラウンをより幅広いユーザー層に広げるというコンセプトを一言でいいあらわしたコピーとして、いまだに語り継がれています。

 自動車業界はまた政界にも人材を送り込みました。米自動車ビッグスリーの一角、フォード社に管理システムを初めて導入し経営を再建したロバート・マクナマラ(7/6)は、社長昇進直後の61年、その手腕を買われてケネディ政権の国防長官に任命されます(ちなみに同政権は、経済ブレーンに経済学者のポール・サミュエルソン[12/13]を招いています)。

 ただ、次のジョンソン政権まで続いたその在任中、マクナマラは徹底した軍事予算の管理のもとベトナムへの軍事介入を推し進めました。やがて彼の精緻な計算は、ベトナム人民のゲリラ戦法の前に狂い始めます。ついには、戦争の泥沼化の責任をとる形で辞任へ追い込まれたのでした。

 ウォルター・クロンカイト(7/17)が、全米ネットワークの一つ、CBSテレビの『イブニング・ニュース』のキャスターとなったのはケネディ政権2年目の62年のこと。同年、日本でもキャスターニュース第1号となる『ニュースコープ』がTBSテレビで始まり、クロンカイトと同じく通信社出身の田英夫(11/13)がキャスターに抜擢されました。けれども、ベトナム戦争の報道をめぐって両者は対照的な道をたどることになります。

 67年に、当時の北ベトナムを取材し、これをドキュメンタリー番組『ハノイ――田英夫の証言』として放映した田は、アメリカがこの戦争に勝利するのは困難だという見通しを示しました。これをときの自民党政府が偏向報道だと非難、結果的に田はキャスターを降板しています。

 対してクロンカイトは翌68年、国の戦況報告への疑問からベトナムに飛びました。それまで中立主義を貫いてきた彼ですが、帰国後の報告では「いまやとるべき道は和平交渉しかない」と主張しました。これを受けて、ときの米大統領・ジョンソンは北ベトナムへの爆撃の停止、さらには次期大統領選への不出馬を決めたともいわれています。

 その後、テレビでの戦争報道は日常化し、91年の湾岸戦争では、空爆の中継映像がテレビゲームのようだと形容されたりもしました。このとき、日本ではニュース番組に頻繁に出演した軍事評論家の江畑謙介(10/10)が一躍ときの人となりました。

 テレビもまた、自動車とともに20世紀を象徴する存在です。日本でテレビ本放送が開始された53年当時、水の江滝子(11/16)らが出演したバラエティ番組の元祖ともいえる『ジェスチャー』が人気を集めました。

 水の江は戦前、松竹歌劇団の男役として脚光を浴びましたが、戦後はテレビ出演のほか日活のプロデューサーとして活躍しました。彼女が56年に製作した映画『太陽の季節』には、のちに結婚する長門裕之南田洋子(10/21)が主演しています。

 『ジェスチャー』は女性陣と男性陣が対抗するという形式で、それぞれのキャプテンを水の江と落語家の柳家金語楼が務めました。この金語楼の息子、山下武(6/13)は60年代にNET(現テレビ朝日)のディレクターとして『大正テレビ寄席』を手がけ、演芸ブームを巻き起こしました。しかしブームに乗じて類似番組がどんどんつくられるうちに人材が払底すると、落語家が狩り出されるようになります。三遊亭圓楽(5代目。10/29)ら当時の若手落語家が出演した『笑点』もそのような背景から生まれました。

 テレビ放送開始以来の人気番組といえば、日本テレビのプロレス中継もあげねばなりません。しかしそれもついに今年2月、地上波から消えてしまいました。力道山日本プロレスジャイアント馬場全日本プロレスの流れをくむ「プロレスリング・ノア」の地上波での中継打ち切りからまもなくして、ノアの社長でプロレスラーの三沢光晴(6/13)が急死しています。

 在京民放テレビ局のうち後発局であるフジテレビは、鹿内信隆・春雄父子による一族経営によって急成長をとげました。同局が「軽チャー路線」を打ち出した84年、春雄は、元NHKアナウンサーでフジに移籍していたキャスターの頼近美津子(5/17)を妻に迎えます。しかし結婚からわずか4年で春雄が急死。その後女優やコンサート・プランナーとして活躍した頼近もまた53歳という若さで亡くなりました。

 フジテレビ同様の父子経営といえば、松竹の奥山融(11/7)社長と和由専務父子の解任劇(98年)も思い出されます。

 テレビによって人気が高まったスポーツにはプロレス以外にプロ野球があります。山内一弘(2/2。旧名は和弘)は50年代から60年代にかけて大毎オリオンズ(現・千葉ロッテ)などで活躍した大打者、土井正三(9/25)は1965〜73年の読売ジャイアンツのV9に、主に2番打者として貢献した選手です。

 この二人には奇妙な共通点があります。それは、プロ野球の監督として大選手の才能を見抜けなかったという“悪評”がつきまとうことです。山内は社会人野球からロッテに入ったばかりだった落合博満の独特のバッティングフォームを見て、これではプロで通用しないと言い放ったといいます。土井は、オリックス入団2年目のイチローを一軍になかなか定着させませんでした。イチローが一軍に定着し、シーズン安打210本という日本記録を打ち立てるのは翌年、仰木彬監督に変わってからです。

 とはいえ、落合本人は、山内の高度な理論が当時の自分には理解できなかったとのちに語っています。イチローにしても、くだんの悪評について土井の死後、「そうじゃないのにね」と否定しました。

 なお、土井が監督を務めたオリックスは2004年に大阪近鉄バファローズと合併、オリックス・バファローズとして京セラドーム大阪を本拠地としました。もともと大阪ドームとしてオープンした同球場は、関西の大手私鉄近鉄の会長で球団オーナーだった上山善紀(8/25)によって建設が推進されました。

 上山はまた、三重県志摩半島に大規模リゾート・志摩スペイン村の建設を進めました。けれども、大都市から離れていることもあって経営は苦戦が続いています。これに対して、元千葉県知事・川上紀一(8/14)が実現を公約に掲げた東京ディズニーランドTDL)は、大都市型テーマパークとして大成功を収めました。ただし、当の川上は、1975年の知事選出馬前に不正献金を受けていたことが在任中の81年になって発覚、83年のTDLのオープンを待たぬまま辞任しています。

 TDLには87年、「キャプテンEO」というマイケル・ジャクソン(6/25)主演のアトラクションが登場しています。マイケル自身、大のディズニー好きで、その大邸宅をネヴァーランドと名づけたほどでした。

 マイケルが83年にリリースした「スリラー」は、そのプロモーションビデオ(PV)とともに世界的なヒットになりました。日本でも翌年にはアメリカのMTVと提携してPVを流す番組も始まったものの、国内アーティストにはPVはまださほど必要とされていませんでした。これについては、歌番組やCMでのイメージソングがその代わりを担っていたからとの見方もあります。そう考えると、忌野清志郎(5/2)の歌番組での、噛んでいたガムをカメラに向かって飛ばしたり、自分の曲の放送を“自粛”したラジオ局を非難する曲を突然歌い出したりといったパフォーマンスは、格好のプロモーションだったといえるかもしれません。

 プロモーションといえば、2016年の五輪招致のため東京都がつくった10分間のPVは、製作費に5億円もかかっていたことが判明し物議をかもしました。今回の五輪招致では、敗戦直後、競泳で立て続けに世界記録を出した古橋廣之進(8/2)にも、元JOC会長、国際水泳連盟副会長にして名誉都民という立場から協力が期待されていました。けれども、古橋は10月のIOC総会での最終投票を待たずにローマで客死、五輪招致も失敗に終わったことは周知のとおりです。

 往年のアスリートでは、56年のコルティナダンペッツォ冬季五輪のアルペン3種目で優勝したオーストリアのスキー選手で、のちに俳優に転身したトニー・ザイラー(8/24)も亡くなりました。ザイラーは日本にもたびたび訪れ、59年には松竹映画『銀嶺の王者』に主演しています。60年の来日時には東レの広告に登場、このとき「ことしの流行はザイラーの黒」というコピーを書いたのが、土屋耕一(3/27)でした。

 もともと資生堂宣伝部のコピーライター第1号として出発した土屋は、フリーになってからも資生堂の広告を手がけました。80年の「ピーチパイ」というコピーからは、竹内まりやの歌うイメージソング「不思議なピーチパイ」が生まれています。

 この「不思議なピーチパイ」の作曲を手がけたのは加藤和彦(10/17)でした(作詞は当時夫人だった安井かずみ)。加藤と広告のかかわりは深く、70年には“脱商品広告”のさきがけといわれる富士ゼロックスのテレビCM「モーレツからビューティフルへ」に出演、若者たちのフィーリングに訴えかけました。

 この一年は、先述の梶祐輔や土屋耕一のほか、日本のグラフィックデザインのパイオニアと称される早川良雄(3/28)、それに続く世代にあたる木村恒久(08年12/27)、福田繁雄(1/11)、粟津潔(4/28)と、広告業界周辺の人物の訃報が目立ちました。このうち粟津は、70年の大阪万博アミューズメントゾーンの基本構想計画にも参加していますが、これは今年閉園したエキスポランドの原型となるものでした。

 コピーライターでは、土屋の影響下から出発した眞木準(6/22)も亡くなっています。眞木は、93年に羽田孜小沢一郎らが自民党を離脱し新党を旗揚げしたさい、「新生党」という党名を考案するなど幅広い仕事を手がけました。

 津久井克行(10/2)を中心とする男性デュオグループclassの「夏の日の1993」がヒットした93年夏、ときの宮澤喜一内閣への不信任案可決を受けて総選挙が実施されます。同内閣で外相だった武藤嘉文(11/4)は、大平正芳首相の急死直後に大勝を収めた80年の総選挙を引き合いに出して、「宮澤さんもお亡くなりになれば……」と口を滑らせてしまいますが、羽田や小沢のほかにも離党者があいついだため自民党は大敗、日本新党細川護熙を首相とする非自民連立政権が発足しました。

 連立政権成立の立役者である小沢一郎は翌94年にはポスト細川政権もにらんだ上で、自民党の有力政治家だった渡辺美智雄らを切り崩しにかかります。

 渡辺をうながすべく、その側近だった柿澤弘治(1/27)たちが先行するかたちで自民党を離党、自由党(後年小沢のつくった同名の党とは別物)を結成しました。けっきょく渡辺の取り込みには失敗、細川に代わって羽田が政権を引き継ぎ、柿澤は同内閣で外相に就任します。ただしその在任期間は約2カ月と短いものでしたが。

 大蔵省出身の柿澤は、77年の参院選新自由クラブ(新自ク)から出馬し初当選を果たしました。新自クはその前年、ロッキード事件によってあかるみになった金権体質への批判から自民党を離党した河野洋平ら若手政治家たちによって結成された保守新党です。その総元締め的存在だったのが河野のいとこにあたる田川誠一(8/7)でした。

 70年代には、名古屋市長となった本山政雄(5/11)など全国の大都市に革新首長が誕生し、国政でも「保革伯仲」の時代を迎えていました。さらに、評論家の室伏哲郎(10/26)が「構造汚職」と呼んだ、自民党政権と官界・財界の癒着構造に起因する汚職事件があいつぎ国民の不満が高まります。新自由クラブと、先述の田英夫が代表となった社会民主連合社民連)は、こうした背景からそれぞれ保革を代表する都市型の新党として登場し、期待を集めました。

 けれども、新自クは勢力を伸ばせず86年に解散。河野などほとんどのメンバーは自民党に復帰したものの、田川だけはかたくなに金権政治の打破を訴え一人で進歩党をつくりました。社民連では早くから田ら「旧社会党派」と菅直人ら「市民派」とが対立し、細川政権発足時には当時の代表である江田五月が入閣しましたが、田は連立政権を批判して脱退、けっきょく94年に解党します。

 政界関係ではこのほか、2006年、当時の民主党執行部の総退陣にまで発展したいわゆる「偽メール問題」の火付け役である元衆院議員の永田寿康(1/3)が自殺、また麻生内閣財務相として出席したG7の財務相中央銀行総裁会議の終了後の“もうろう会見”で物議をかもした中川昭一(10/3)が、総選挙での落選後まもなくして急死するなど衝撃的なできごとがあいつぎました。

 麻生自民党から鳩山民主党への政権交代は、彼らの祖父にあたる吉田茂から鳩山一郎への政権交代(54年)と何かと重ね合わせられました。そういえば、83年の映画『小説吉田学校』で吉田を演じたのは森繁久彌(11/10)でした。その森繁に「国民のおじいちゃんのような方」だからとの理由で、鳩山一郎の孫から国民栄誉賞が贈られるというのは何か因縁めいているような……。なお、『小説吉田学校』で美術監督を務めたのは、黒澤明監督作品にも多数かかわった村木与四郎(10/26)でした。

 クロサワアキラといえば、ムード歌謡の「ロス・プリモス」のそれぞれ初代と2代目リーダーである黒沢明(4/9)と森聖二(10/18)が立て続けに亡くなっています。歌謡界での物故者はこのほか、作詞家の松井由利夫(2/19。代表作に氷川きよし箱根八里の半次郎」など)、石本美由起(5/27。美空ひばり「悲しい酒」など)、音羽たかし(8/6。ザ・ピーナッツ「情熱の花」など)、丘灯至夫(11/24。舟木一夫「高校三年生」など)、作曲家の三木たかし(5/11。石川さゆり津軽海峡・冬景色」など)がいます。

 歌謡曲がらみでは、『山口百恵は菩薩である』『大歌謡論』などたくさんの歌謡曲論を著した評論家の平岡正明(7/9)もぜひあげておきたい。その2カ月前には、平岡やルポライター竹中労とともに70年代に「3バカゲバリスタ」と称して活動を行なった革命思想家の太田龍(5/19)も亡くなっています。彼らにとって、アジアに対する日本の戦争責任の追及は重要なテーマでした。

 アジア各国でもかつての指導者たちの訃報があいつぎました。韓国前大統領の盧武鉉(5/23)が自殺した3カ月後には、彼の前任者であり、民主化運動のリーダーだった金大中(8/18)が死去。さらに73年の金大中拉致事件を主導したとされる元KCIA部長の李厚洛(イ・フラク。10/31)も亡くなり、同事件の真相究明はますます困難になりました。

 金大中は80年、民主化運動で国内に混乱を招いたとの理由で逮捕、一時は死刑宣告も受けますがのちに刑執行が停止され、しばらくアメリカで事実上の亡命生活を送っています。このとき、金はやはり亡命中だったフィリピンの野党議員、ベニグノ・アキノと親交を持ちました。ベニグノは83年、3年ぶりに帰国するも到着した空港で暗殺されてしまいます。86年のフィリピン2月革命でマルコス政権が倒れると、ベニグノの未亡人のコラソン・アキノ(8/1)が大統領に就任しました。

 鳩山首相は今年、「東アジア共同体」創設を提唱しました。いっそ、そのマスコットに、いまやアジア各国で人気を集めている臼井儀人(9/11)の『クレヨンしんちゃん』を起用してみてはいかがでしょうか。

 冷戦終結から今年で20年を迎えました。アメリカの国際政治学者、サミュエル・ハンティントン(08年12/24)は96年に刊行した『文明の衝突』のなかで、冷戦後の国際社会はいくつかの文明圏に分裂し、それらの対立・衝突によって世界秩序がつくられていくという見方を示しています。同書は鈴木主税(10/25)によって邦訳され、日本でも話題になりました。

 2001年のタリバンが首謀したとされる9・11テロ、それに先立つアフガニスタンバーミヤン渓谷の巨大仏像の破壊は、ハンティントンの予見が的中した事例ともいえます。なお、大仏の破壊にさいして、日本画家の平山郁夫(12/2)は、ユネスコ親善大使として抗議活動を行ないました。

 予見といえば、ドイツの振付家ピナ・バウシュ(6/30)の演出により89年11月に初演された舞台『パレルモパレルモ』では、幕が開くとともに400個もの煉瓦を積み上げた壁が一瞬にして崩れ落ち、観衆に衝撃を与えました。ベルリンの壁の崩壊はそれから約1週間後のことです。振付家では、バウシュの先行世代にあたるアメリカのマース・カニングハム(7/26)も今年亡くなっています。

 本稿でとりあげた自動車にしてもテレビや広告にしても、大きな転換期を迎えています。出版の世界もまた例外ではありません。評論家の中島梓(5/26。栗本薫の名で作家としても活躍)は26年前に著した『ベストセラーの構造』で、赤字を補うために出版点数を増やすというやりかたはいずれ破綻し、出版社も本も著者も容赦ない淘汰にさらされるのではないかと懸念しましたが、その予見はほぼ的中してしまいました。

 中島は前掲書において、現代社会はスケープゴートを必要とする社会であり、ベストセラーにもその傾向が見られることを指摘しています。それを読んでふと、昨年のいまごろの飯島愛の死(08年12/17?)を思い出しました。それにしても彼女といい、大原麗子(8/3)や山城新伍(8/12)といい、芸能人の孤独死があいついだ一年でもありました。

 最後にとりあげるのは、やはりこの人を置いてほかにないでしょう。100歳で大往生したフランスの文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロース(10/30)です。

 80年代にめざましい経済成長をとげつつあった韓国を訪れたものの、朝鮮文明の遺跡しか求め歩かなかったレヴィ=ストロースを見て、現地のある学生は「レヴィ=ストロースは、もはや存在しないものにしか興味を示さない!」と言ったといいます。

 原始文明と先進文明という区分を取っ払い、すべての人類に不変的な構造を見出したこの偉大なる思想家にとって、たかだか一世紀のうちに起きた変動など、人類の長い営みからすればささいなものとしか思えなかったのかもしれません。

 これまでにあげた人たちすべての人生がすっぽり納まるほど生きながらえた人物をとりあげたところで、本稿を締めたいと思います。あらためて、彼ら彼女らに哀悼の意を表しつつ――。

  (初出 「ビジスタニュース」2009年12月24日)

時代を仕掛けた2010年物故者たち

 一年間のごぶさたでした。

 ……と、TBSテレビの往年の歌番組『ロッテ歌のアルバム』での司会者・玉置宏(2/11。以下、日付は故人の命日を示す)の決まり文句「一週間のごぶさたでした」をもじってみたところで、一昨年・昨年に続き、今年もこの一年間に亡くなった著名人たちを振り返ってみたい。

 玉置の没後、昭和のヒット歌謡を彼のナレーション付きで収録したCDシリーズ『玉置宏の昭和ヒットコレクション』がリリースされた。そのうちVol.2に収録された小林旭の「昔の名前で出ています」のイントロには、こんな玉置によるナレーションがかぶせられていた。

 〈木の葉が枯れて冬になる/若葉が萌えて夏になる/たった一つのこの愛を抱き続けて日が過ぎる/一つの川が流れるように/海までひたすら流れるように/私の恋はあなただけ/「昔の名前で出ています」〉

 思えば今年は、まさに「昔の名前で出ています」とばかりに、芸能人やミュージシャンの活動再開が目立った。たとえば、小沢健二。小沢が13年ぶりのライブツアー決定を発表したのと前後して、アメリカの小説家、J.D.サリンジャー(1/27)の訃報が流れた。アメリカ文学に造詣の深い小沢だけに、そのタイミングに驚いたファンも多いのではないだろうか。サリンジャーもまた45年ものあいだ完全に隠遁状態にあったため、その訃報じたいが「昔の名前で出ています」という感があった。

 復帰組としてはほかに歌手の佐良直美がいる。27年ぶりの新曲を発表した佐良は、30年前、とあるスキャンダルを芸能レポーター梨元勝(8/21)にスクープされた。芸能活動を休止したのもそれが原因だとまことしやかにささやかれていたが、佐良は復帰時にこれを明確に否定、梨元についても「直接話をうかがってみたかった」とその死を悼んだ。

 さて、「昔の名前で出ています」を作詞した星野哲郎(11/15)には、元遠洋漁業の船乗りだったせいもあってか、この歌以外にも流浪を歌った作品が多い。たとえば、北島三郎「函館の女」「風雪ながれ旅」、都はるみアンコ椿は恋の花」、黒沢明ロス・プリモス「城ヶ崎ブルース」――ここでは吉岡治(5/17)作詞の「天城越え」とニアミスする――、あるいは水前寺清子「東京でだめなら」などが思い出される。

 「東京でだめなら」というつもりではなかっただろうが、東京都の副知事として1964年の東京オリンピックを成功させたのち、いったん東京を離れて、大阪での万博開催に尽力したのが鈴木俊一(5/14)である。鈴木は、次期知事の呼び声も高かったものの、自民党の指名を得られず、都庁を離れた。その直後、日本万国博覧会協会の事務総長に推され、開幕までの準備、1970年3月から半年間におよぶ会期中の運営と、万博の実務レベルでの全責任を負うことになる。

 大阪万博については開催前より、美術評論家針生一郎(5/26)が「民衆不在の祭典」と批判するなど反対の声もあったが、結果的に、多くの学者や芸術家たちが動員された。民族学者の梅棹忠夫(7/3)もその一人である。このとき梅棹は、テーマ館に展示するため、世界各地の民族資料の収集を担当している。集められた資料は、のちに万博会場跡地に建設され、梅棹が初代館長に就いた国立民族学博物館の基礎となった。

 この万博はまた、日本のコンテンツ産業の一つの原点ともいえる。電気事業連合会が出展したパビリオン「電力館」のプロデュースを手がけた本橋浩一(10/26)は、これを契機にアニメーション製作に乗り出し、1975年には日本アニメーションを設立、世界名作劇場シリーズや『ちびまる子ちゃん』などを手がけた。

 尖閣諸島沖での海上保安庁の巡視船と中国漁船との衝突事件の動画がYouTubeに流出したり、内部告発サイト「ウィキリークス」にアメリカの外交機密文書が大量に公開されるなど、今年ほど情報のあり方をめぐって議論が起こった年もないだろう。先述の梅棹忠夫は、すでに1963年に情報産業が中心となる時代の到来を予見、「情報産業論」という論文を『放送朝日』という雑誌に寄稿している。

 『放送朝日』は大阪の民放・朝日放送が発行していた広報誌である。当時の同局の最大の人気番組は何といっても、藤田まこと(2/17)主演のコメディ『てなもんや三度笠』だった。1960年代の多くの日本人にとって、日曜日の夕方には大阪発の『てなもんや三度笠』と、東京発(日本テレビ)のバラエティ『シャボン玉ホリデー』を見るのが定番だったという。『シャボン玉ホリデー』にはクレージーキャッツが出演、そのメンバーだった谷啓(9/11)が「ガチョーン」などのギャグを披露し、流行語となった。

 藤田まことは『てなもんや三度笠』の放映終了後、しばらく人気が低迷するが、1973年、朝日放送製作のテレビ時代劇『必殺仕置人』で江戸町奉行所の同心・中村主水(もんど)を演じて以来、同役で必殺シリーズの顔となった。中村主水は設定こそ関東出身ながら、金をもらって仕置を請け負うというところは、じつに関西的だった(実際、東京のキー局の上層部は、このことを嫌がり変更を求めたという)。

 1984年に阪神間を中心に起こった江崎グリコや森永製菓に対する脅迫事件(グリコ・森永事件)では、ルポライター朝倉喬司(11/6に死亡確認)が、「かい人21面相」を名乗った犯人の関西弁による脅迫状と河内音頭との共通性を指摘するなど、事件の背景に関西の風土をみてとった。

 グリコ・森永事件のように、メディアを通じて犯行を誇示するといった類いの犯罪を「劇場型犯罪」と呼ぶ。この種の犯罪の嚆矢としては、1968年に、在日朝鮮人2世の金嬉老(3/26)が、静岡・寸又峡温泉の旅館に篭城し、集まった報道陣を前に民族差別の現状を訴えた事件をあげることもできよう。あるいは、小説家の立松和平(2/8)が『光の雨』(1998年)で題材とした1971〜72年の連合赤軍事件(とくにあさま山荘事件)も、劇場型犯罪の走りといえる。

 そういえば、劇作家・演出家のつかこうへい(7/10)の出世作熱海殺人事件』(1973年初演)は、幼なじみの女工を殺した「ありきたりの犯人」を、刑事たちが「どこに出しても恥ずかしくない、よりすぐれた犯人」に仕立て上げようとするという、後年の劇場型犯罪を予見するかのような作品だった。

 都市を文字どおり劇場に仕立て上げた先駆的存在として、阪急グループが生んだ宝塚歌劇がある。元阪急電鉄社長の小林公平(5/1)は、宝塚歌劇団の理事長だった1974年に『ベルサイユのばら』を企画、ヒットさせるなど文化事業に力を入れた。そのいっぽうで1988年には、戦前からの伝統を誇ったプロ野球チーム・阪急ブレーブスをオリエンタル・リース(現・オリックス)に売却している。

 その阪急ブレーブスからオリックス・ブルーウェーブ(現・バファローズ)時代を通じて、それぞれ「ブレービー」と「ネッピー」というマスコットキャラのスーツアクターを務めたのが、かつて巨人や阪急でプレイした島野修(5/8)である。球場でのマスコットのパフォーマンスはいまやプロ野球ファンの楽しみの一つとなっているが、それも島野の存在なしにはありえない。なお、島野がかつて演じた「ネッピー」は、来シーズンからの球団デザイン一新により、今季かぎりで卒業することになった。

 プロ野球界では、いわゆる「江川事件」の“犠牲”となる形で、1979年に巨人から阪神にトレードされ「悲劇のエース」とも呼ばれた小林繁(1/17)、巨人優勝に貢献した昨シーズンかぎりで引退した木村拓也(4/7)と、元選手の急死があいついだ。両者とも、それぞれ日本ハム、巨人のコーチに就任したばかりだったこともあり衝撃は大きかった。

 このほかにも、「ミサイル打線」と称された大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の主砲の一人・田宮謙次郎(5/5)、立教大学野球部の黄金時代の監督で、プロ経験は皆無ながら国鉄(現・東京ヤクルト)スワローズでも指揮をとり、国鉄時代唯一のAクラス入り(1961年・3位)へと導いた砂押邦信(7/18)、その砂押から立大時代に指導を受けた、元南海(現・福岡ソフトバンク)ホークスの選手で、引退後は日本ハムなどの監督を務め「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二(10/7)が亡くなっている。

 球界ではまた、横浜ベイスターズの売却話が持ち上がったものの、買収に名乗り出た住生活グループと、現在の親会社であるTBSホールディングスとのあいだで話がまとまらず、破談に終わった。とくに焦点になったのは、本拠地の移転問題であったという。

 ベイスターズの本拠地である横浜スタジアムの建設に際し、横浜市の技監として各方面との調整にあたったのが田村明(1/25)である。田村はこのとき、ベイスターズの前身で、それまで川崎に拠点を置いていた大洋ホエールズを迎えるにあたり、チーム名に横浜と冠することを条件につけた。結果的にこの条件は受け入れられ、その後、チームの愛称や親会社が変わっても継承されている。

 もともと民間の都市プランナーだった田村だが、飛鳥田一雄市長の招きで横浜市入りし、1968年から13年間にわたって、ハードもソフトも含む総合的な都市計画を推進した。田村はこれを「まちづくり」と名づけている。まちづくりといえば、戦後を通じて日本各地の民家をフィールドワークし、建造物の保存や町の景観の保護などにも大きな影響を与えた建築史家の伊藤ていじ(1/31)の名もぜひあげておきたい。

 田村明は、横浜市にあって民間企業とも協調しながらまちづくりを進めた。1980年代以降、こうした手法は民間活力(民活)の導入として脚光を浴びるようになる。都市計画において民活を大胆に取り入れたのは何といっても、鈴木俊一知事時代の東京だろう。大阪万博を成功させたのち、1979年に念願の東京都知事に就任した鈴木は、4期16年におよんだその在任中に、都庁の新宿移転を実現、臨海副都心の建設も端緒につけた。

 鈴木都政のもとでは都内各地に多くのハコモノが建設された。江戸東京博物館もその一つである。JR両国駅の旧国鉄用地に建てられた同博物館は1993年、国技館の横に開館した。ほぼ同時期、国技館内にある相撲博物館の館長を務めていたのが花田勝治、元横綱若乃花幹士(初代。9/1)である。

 現役時代のライバル・栃錦より20年も長生きをし、82歳と歴代横綱では稀有な長寿だった初代若乃花だが、その晩年は、弟(初代貴ノ花)の早世や甥兄弟(花田勝貴乃花親方)の確執に加え、角界の不祥事もあいつぎ、幸せなものだったとは言い切れまい。

 名アスリートとして栄光を得ながらも、晩年に挫折を経験した点では、オランダの柔道家アントン・ヘーシンク(8/27)も似ている。東京オリンピックの柔道・無差別級において、神永昭夫を下して金メダルを獲得したヘーシンクは、70年代にプロレスラーとして活躍したのち、柔道の世界に戻り後身の指導に専念した。1987年からは国際オリンピック委員会IOC)委員としてカラー柔道着の導入などの功績を残したものの、ソルトレーク冬季オリンピック招致にからむ買収スキャンダルで1999年、警告処分を受けている。

 多くの処分者が出たこのときの五輪スキャンダルでは、当時のIOC会長、ファン・アントニオ・サマランチ(4/21)の責任も厳しく問われた。サマランチは、1980年に会長に就任すると、財政の逼迫していたIOCを、放映権の販売やスポンサーシップの導入などにより再建を果たしている。しかしこうしたオリンピックの急速な商業主義化は、サマランチの長期支配もあいまって、組織の腐敗をもたらすことにもつながってしまった。彼の栄光の絶頂は、1992年、母国スペインでのバルセロナ・オリンピックの開催を見届けたときではなかったか。冷戦の終結直後に行なわれたこの大会は、政治的対立による参加国のボイコットも久々になかった。

 ソビエト連邦が解体されたのはバルセロナ五輪の前年のことである。ソ連解体は、当時の副大統領、ゲンナジー・ヤナーエフ(9/24)らがゴルバチョフ大統領の静養中に企てたクーデターの失敗以降、一気に現実のものとなった。解体直前のソ連政府では、グラスノスチと呼ばれた情報公開が急速に推し進められたが、そのなかで、第二次大戦中の1940年にソ連の領土内で起こった、ソ連軍によるポーランド軍将校たちの虐殺事件(カチンの森事件)も初めて公式に認められた。

 カチンの森事件の発生から70年を迎えた今年、ロシア政府の主催により、ポーランド大統領のレフ・カチンスキも出席して追悼式典が行なわれる予定だった。だが、カチンスキは現地に向かう途中、搭乗していた政府専用機が墜落、同乗していた夫人や同国の多くの要人などとともに死亡が確認された(4/10)。この事故はロシアだけでなく、カチンスキとは歴史認識の問題で対立していたドイツなど、各国に大きな衝撃を与えた。

 冷戦終結は、旧ソ連のほかヨーロッパ各国でさまざまな公文書が公開される契機となった。イギリスの現代史家、トニー・ジャット(8/6)の大著『ヨーロッパ戦後史』(2005年)もそうした幸運なしには完成しなかったという。日本でも今年、民主党政権の意向により、沖縄返還交渉に関するものなど多くの外交文書が公開された。これら新資料をもとに、わが国の戦後史も書き換えられるべき時期に来ているのかもしれない。

 明治維新から戦後へといたる政治史については、「55年体制」という言葉を発案した政治学者の升味準之輔(8/13)や、共同通信社の元記者で、政治評論家の内田健三(7/9)といった人たちが多くの著作を刊行している。このうち内田は、細川護熙熊本県知事選に出馬する際、同郷のよしみから協力を頼まれて以来、細川が1993年に首相に就いたのちもことあるごとに相談に乗っていた。

 細川を首相に担ぎ上げたのは、いうまでもなく小沢一郎である。しかし当時より、小沢には「強権」などといったレッテルがつきまとった。内田はこのような「小沢一郎悪党論」が出てくるのは、小沢という政治家の持つ特異な本質ゆえと説明した。その小沢の評価は、昨年の政権交代を経たいまも定まるどころか、批判と称賛のあいだでますます激しく揺れ動いているように思われる。ちなみに、竹下登元首相の政治団体代表を務めるなど、「最後のフィクサー」と呼ばれた異色の財界人・福本邦雄(11/1)は7年前のインタビューのなかで、小沢について「企画力はあるのだろうが、情がない」「暗い」と評している。

 内田や福本のほかにも、元首相・田中角栄の地元後援会「越山会」の会計責任者で、田中の愛人でもあった佐藤昭子(3/11)、長らく裁判所制度などの改革に取り組み、細川内閣では法務大臣も務めた法学者の三ケ月章(11/14)など、今年は政界のブレーン、黒幕的存在の人々の訃報が目立った。

 ブレーンといえば、1980年代に中曽根康弘内閣が設置した臨時行政改革推進審議会には、日本教職員組合日教組)委員長や日本労働組合総評議会(総評)議長を務めた槇枝元文(12/4)も委員として参加していた。槇枝は、日教組委員長時代の1974年、全国統一4・11ストを指導して地方公務員法違反に問われるなど、急進的労働組合の指導者の代表的存在であった。

 旧国鉄労働組合である国鉄労働組合国労)と国鉄動力車労働組合動労)も、大規模ストライキを実施するなど急進的な姿勢で知られた。とくに後者は「鬼の動労」と恐れられたが、中曽根内閣の推進した国鉄の分割・民営化に対しては、最初こそ国労とともに反対していたものの、やがて賛成に転じる。国鉄民営化の実現へと大きく前進させたこの方針転換を決定したのが、動労中央本部委員長の松崎明(12/9)だった。1987年の国鉄民営化後には、鉄道労連(現・JR総連)やJR東労組の幹部を務めた松崎は、新左翼セクト革マル派」の結成時からのメンバーとしても知られる。

 海外の政界ブレーンに目を向ければ、ケネディ米大統領の側近で、弁護士・作家のセオドア・C・ソレンセン(10/31)があげられる。ソレンセンは、1961年のケネディの就任演説に、「国が何をしてくれるのだろうかと問うことはやめていただきたい。反対に自分が国のために何をなすことができるかを問うていただきたい」という名文句を盛りこんだことで知られる。

 ケネディはまた、大統領選挙中に対立候補ニクソンとテレビ討論を行なうにあたり、映画監督のアーサー・ペン(9/28)から「カメラをまっすぐに見据え、答えを短く」とのアドバイスを受けた。これが有権者に自信と落ち着きのある雰囲気を印象づけ、大統領選勝利へとつながったといわれる。

 ペンはその後、1967年に『俺たちに明日はない』を監督した。反体制的、アンハッピーエンドといった、それまでのハリウッド映画にはない新しい傾向を持つこの作品を、『タイム』誌は「アメリカン・ニューシネマ」と称し、以後、米映画界に大きな流れが形成されることになった。俳優のデニス・ホッパー(5/29)が監督・出演した『イージー・ライダー』(1969年)もそのなかで生まれた名作である。

 文化の世界にも、政界と同じく仕掛人や黒幕がいる。たとえば、イギリスの音楽プロデューサー、マルコム・マクラーレン(4/8)。彼は1970年代半ば、セックス・ピストルズというロックバンドを世に送り出した。ピストルズは、マルコムとそのパートナーでブティック「セックス」を共同経営していたヴィヴィアン・ウエストウッドや、グラフィックデザイナーのジェイミー・リードらとの共同プロデュースによるものだともいえるが、それでもすべての決定権を握っていたのはマルコムだった。やがてメンバーのジョニー・ロットン(のちのジョン・ライドン)は、彼に支配されることに嫌気が差してピストルズを脱退してしまう。

 クセの強いプロデューサーといえば、日本にも西崎義展(11/7)がいた。1970年代にテレビアニメから劇場版シリーズへと進展した『宇宙戦艦ヤマト』のプロデュースを手がけた西崎は、昨年には自身初の監督作品である『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を劇場公開した。この間、『ヤマト』の著作者は西崎なのか、それともマンガ家の松本零士なのかをめぐって法廷で争われたが、最終的に西崎であることが認められている。それにしても、『ヤマト』における西崎と松本の関係は、ピストルズにおけるマルコムとジョニー・ロットンの関係とどこか似てはいまいか。

 出版界では、JICC出版局(現・宝島社)の編集者として『別冊宝島』を創刊し、のちに洋泉社の社長となった石井慎二(2/12)をはじめ(付録つき女性誌電子タバコなどで売り上げを伸ばし続ける現在の宝島社を、石井はどう見ていたのだろうか)、文芸誌『新潮』の新人編集者として太宰治の連載「斜陽」(1947年)を担当し、その後『週刊新潮』の創刊に参加、編集長も務めた野平健一(7/5)、『文藝』『海燕』の編集長として中上健次島田雅彦よしもとばなななどといった作家たちを育てた寺田博(3/5)、人文・社会科学系の学術専門書を多数出版しているミネルヴァ書房の創業者・杉田信夫(9/14)、米男性誌ペントハウス』を創刊し、のちにハードコアポルノ映画『カリギュラ』(1980年)も製作したボブ・グッチョーネ(10/20)と、名物編集者・経営者らの死去があいついだ。自宅で刺殺されるという痛ましい死をとげた「鬼畜ライター」の村崎百郎(7/23)も、もともとはマイナーな海外文学やカルチャー誌の出版で知られたペヨトル工房の編集者だった。

 ノンフィクション作家の黒岩比佐子(11/17)は、『編集者 国木田独歩の時代』(2007年)では作家・国木田独歩がグラフ雑誌の発行のため設立した「独歩社」を、亡くなる前月に刊行された遺作『パンとペン』では社会主義者堺利彦のつくった日本初の編集プロダクション「売文社」を、というぐあいに、その時代の文化人たちの接点となった“場所”を好んで題材にとりあげた。

 社会科学者・評論家の小室直樹(9/14)が、参加者の所属・専攻・年齢を問わず門戸を開き、広く社会科学の基礎を指導した自主ゼミからは、社会学者の橋爪大三郎宮台真司などが輩出されたが、これもまた文化的接点の一種といえるだろう。

 文化の本体は、地上に出ている花というよりは、むしろ地下に菌糸のようにはりめぐらされた、ややこしい人間関係みたいなものにこそある……と、ユニークな文化論を展開したのは数学者の森毅(7/24)だ。キノコに関する編著もある森はさらに、文化を樹木に寄生するカビやキノコになぞらえ、キノコ=文化は時の権力の成長の証しであるいっぽうで、権力から養分を吸い尽くしてつぶす役割も果たしていると喝破した。

 戦後誕生した民間放送は、経済成長とともに発展をとげつつあった日本企業にある意味、寄生することで育ったということもできるかもしれない。さらにその民放のなかでも、放送局に“寄生”することで、若者たちの解放区たりえたのがラジオの深夜放送だったとはいえまいか。俳優・声優の野沢那智(10/30)が白石冬美とDJを担当したTBSラジオ『パックイン・ミュージック』、渡邊一雄(10/11)がプロデューサーを務め、桂三枝谷村新司明石家さんまなどがパーソナリティーを担当した毎日放送の『MBSヤングタウン』などは、一時代を築いた深夜番組だった。

 在京の民放テレビのなかでは後発局にあたるフジテレビには、女性のテレビ制作者の草分けである常田久仁子(11/3)もその設立に参加していた。常田は、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』など同局での萩本欽一のすべての出演番組を手がけ、萩本から「テレビ界のおっかさん」と慕われた人物である。コント55号としてテレビに出始めたばかりの萩本は、常田から「テレビは女の人が見てんの。女はね、いくらコントがおもしろくても、汚いかっこしてると見てくれないわよ」とアドバイスを受けたという。思えばこのときこそ、浅草の芸人だった萩本が、テレビタレントへと生まれ変わった瞬間だったのかもしれない。

 「テレビは女の人が見ている」ということは、同じくフジテレビが放映しヒット作となった昼のメロドラマ『日日の背信』(1960年)が証明していた。このドラマに主演したのが池内淳子(9/26)である。池内は後年、NHK連続テレビ小説天うらら』(1998年)でヒロインの祖母を演じ、介護される様子も描かれたが、実生活では実母の介護経験を持ち手記も著している(ちなみに池内は、やはり今年亡くなった俳優の池部良[10/8]、小林桂樹[9/16]と、松本清張原作の映画『けものみち』で共演している)。

 すでに日本は、本格的な少子・高齢社会に突入している。今年亡くなった著名人のなかにも、舞踏家の大野一雄(6/1)、女優の長岡輝子(10/18)と、100歳をすぎてなおも活動を続けていた人たちがいた。

 小説家・劇作家の井上ひさし(4/9)の長編小説『吉里吉里人』(1981年)では、日本からの独立を宣言した東北の農村が、海外から一流の医師を集めて医療立国を標榜し、不老不死のユートピアをめざすさまが描かれた。果たして人間が永遠に生き続けることなど、本当に可能なのか。

 美術家の荒川修作(5/19)は、「人間は死んではならない」という課題を設定し、妻で詩人のマドリン・ギンズと作品をつくり続けた。死なない=「天命の反転」のために荒川がとった方法は、延命治療などではなく、「人間の可能性の拡張」というものだった。彼の手がけた「養老天命反転地」(岐阜県養老町にある体験型庭園)や「三鷹天命反転住宅」(東京都三鷹市)は、歩いたりするのに特別なバランス感覚が必要とされる。後者について、荒川は「ここに住むと身体の潜在能力が引き出され、死ななくなる」と説明した。

 荒川はまた、三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーを「天命の反転」を成し遂げた人物として称えた。そういえば、先述の梅棹忠夫もまた、60歳をすぎて失明したが、それを克服して亡くなるまでになおもたくさんの本を著した。あるいは、脳梗塞によって右半身麻痺や言語障害に陥り一時は絶望のふちに立ちながらも、やはりこれを乗り越え、克明な闘病記『寡黙なる巨人』(2007年)を上梓するなど著述活動を続けた免疫学者の多田富雄(4/21)も、「天命反転」を達成した人物とはいえまいか。

 絵本作家・佐野洋子(11/5)の『100万回生きた猫』(1977年)は、100万回生き返りながら一度も他者を好きになったことのなかった猫が、一匹の猫を初めて本気で好きになり、相手が死ぬと、あまりの悲しさに泣き続け、ついには自分も死んでしまい二度と生き返ることはなかった……という話だった。この絵本から私は、人生は一回きりだからこそ幸福や充実感が得られるのだというメッセージを読み取った。しかしそれは、荒川修作のめざしたものと何ら矛盾しないような気がする。たとえ何度も生き返ることができても、自分の可能性を引き出せないのであれば、それは生きているとはいえないように思うからだ。

 とはいえ、自らの可能性を十分に出し切って死ぬことはやはり難しい。アニメーション映画監督の今敏(8/24)は新作の制作途中、46歳にして末期がんで亡くなったが、その死後公開された遺書により、がんを宣告された彼が、生き延びるための方法を模索するいっぽうで、「ちゃんと死ぬための準備」を可能なかぎりして逝ったことがあきらかにされた。この遺書を読んで、自分が同じ境遇に立たされたとき、ここまでできるだろうかと思った人は結構多いのではないか。

 おそらく、ここまでとりあげた人の多くは、自分の可能性を出し切ったとまではいかなくても、引き立すべく常に努力を続けてきたはずである。今年亡くなった人にはまた、各分野の黒幕やプロデューサー的な人たちが目立つ。これらの人々はいわば、時代の可能性を引き出したともいえないか。時代を仕掛け、歴史を動かした彼ら彼女らを称えながら、あらためて哀悼の意を捧げたところで、本稿を締めたい。

  (初出 「ビジスタニュース」2010年12月29日)