情報化の時代を生きた2011年物故者たち

 すいません、2011年が終わる前にもうひとつだけ、この1年に亡くなった著名人を振り返ってみたいんですがね――なんて言うと、テレビドラマ『刑事コロンボ』のピーター・フォーク(6/23。以下、日付は故人の命日を示す)のセリフみたいですが――、こうすることで、2011年がどんな年だったのかを知る糸口みたいなものがつかめると思うのです。

 2011年という年は、あの大震災と大津波、それから原発事故のあった3月11日を境にまっぷたつに分断され、それ以前のことはよく覚えていないという人も多いのではないでしょうか。たとえば、参議院議長在任中に死去した西岡武夫(11/5)は、自身の所属政党のトップである菅首相を批判していましたが、それは何も震災後に始まったことではありません。あと、ひょっとすると大相撲の春場所も震災の影響で中止になったと思いこんでいる人もいるかもしれませんが、あれは八百長問題の発覚によるものです。角界ではここ数年、外国人力士に日本人力士がすっかり押された観があったものの、9月場所の琴奨菊に続き、11月の九州場所では稀勢の里が、師匠の鳴門親方(元横綱隆の里。11/7)の急逝という事態に見舞われながらも大関昇進を決めました。

 他方、2010年末から2011年頭にかけてのチュニジアでの「ジャスミン革命」を発端に、北アフリカ・中東のアラブ諸国に広がった民主化要求運動は、いまも強い記憶に残っているという人も多いかと思います。このうちリビアでは反政府デモから内戦状態に陥り、1969年以来続いてきたカダフィによる独裁体制が崩壊。首都を追われたカダフィはその後、潜伏先で反カダフィ派に発見・拘束された際に死亡しました(10/18)。

 こうした一連の動きは「アラブの春」とも呼ばれます。しかし1989年の東欧諸国での民主化が、ヴァツラフ・ハヴェル(12/18)の主導した旧チェコスロバキアの「ビロード革命」をはじめ、ほとんどの国で血を流すことなく実現されたことを思えば(旧体制指導者が処刑されたルーマニアなど例外はあるものの)、「アラブの春」で払われた犠牲はあまりにも大きく、手放しでは喜べません。同様に北朝鮮についても、総書記・金正日の急死(12/17)をもって独裁体制から脱却して穏便に民主化、さらに朝鮮半島の南北統一にいたると考える人は少ないでしょう。

 アラブ諸国のうちエジプトでもまた、30年にわたり君臨したムバラク大統領が失脚しました。エジプトといえば、古代エジプトの女王を描いたアメリカの大作映画『クレオパトラ』(1963年)は、当のエジプトでは公開されなかったという逸話があります。その理由は、主演のエリザベス・テイラー(3/23)が撮影中にユダヤ教に改宗したため。これ以外にもわがままのかぎりを尽くしたテイラーのため製作費ははねあがり、製作会社の20世紀フォックスは倒産寸前にまで追いこまれます。エリカ様どころの話ではありませんね。なお、テイラーが子役として銀幕デビューしたのは1943年、同年には日本でやはり子役の沢村アキヲ、のちの長門裕之(5/21)が映画『無法松の一生』に出演しています。

 私生活もふくめ華やかな話題を振りまいたテイラーは、生きながらにして伝説的存在でした。アメリカの画家ウォーホルは、マリリン・モンロープレスリーなどとともにテイラーをポップアイコンとして作品にとりあげています。このほかにも多くの有名人のポートレートを手がけたウォーホルのこと、90年代以降も生きていたら、インドの霊的指導者、サイ・ババ(4/24)あたりも描いていたかもしれません。ウォーホルらによって60年代のアメリカで全盛を迎えたポップアートですが、元はといえばイギリスの画家、リチャード・ハミルトン(9/13)が1956年に発表した「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか?」と題するコラージュ作品に端を発します。

 美術界では1950年代から60年代にかけてじつに多様な潮流が生まれました。日本でも「世紀」の桂川寛(10/16)、「具体美術協会」の元永定正(10/3)、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の吉村益信(3/15)など、前衛芸術を志向する幾多のグループから作家が次々と輩出されています。同時期には美術評論においても瀬木慎一(3/15)や中原佑介(3/3)といった新人が現れ、前衛の作家たちの伴走者として活躍するようになります。瀬木はその後、日本の現代美術だけでなく浮世絵やピカソなど幅広く研究し、女優の高峰秀子(2010年12/28)と絵画をテーマにした対談集まで出しています。

 一方の中原佑介は1970年、現代美術の最先端を紹介する第10回日本美術国際展(東京ビエンナーレ)のコミッショナーを務めました。このビエンナーレは、2005年に東京都現代美術館で一部が再現されています(企画展「東京府美術館の時代 1926〜1970」)。このとき堀川紀夫という作家が再現した、自然石を美術館へ郵送するという“作品”では、石に針金でくくりつけられた札に宛名として当時の東京都現代美術館の館長だった氏家齊一郎(3/28)の名前が書かれていました。氏家は当時の日本テレビ会長でもあります。

 80年代に一旦は読売グループを離れた氏家ですが、90年代初めに盟友の渡邉恒雄読売新聞社長に就任したのを機に日本テレビに復帰しました。彼らの台頭で影が薄くなったのは、それまで巨人軍オーナーや読売新聞社主などを歴任しグループ内で実権を握ってきた正力亨(8/15)です(2011年は正力のほかにも阪神タイガース久万俊二郎[9/9]、ヤクルトスワローズの松園直已[12/9]と各球団の元オーナーが亡くなっています)。

 日本プロ野球史上前人未到の巨人の9年連続日本一は、正力がオーナーに就任した翌年、1965年から始まります。V9時代、じつに5回も日本シリーズで巨人と対戦した西本幸雄(11/25)監督率いる阪急ブレーブスは一度も日本一になれませんでした。西本はこの前後、大毎オリオンズ近鉄バファローズでも監督として日本シリーズに進出したものの、いずれも制覇はならず「悲運の闘将」と呼ばれることとなります。

 1974年に巨人の日本シリーズ進出を阻んだのは、与那嶺要(2/28)監督率いる中日ドラゴンズでした。ハワイ出身の日系2世である与那嶺は、巨人などでの現役時代、ダイナミックな走塁やスライディングなどアメリカ流の野球を日本に伝えました。アメリカ人を父に持つ伊良部秀輝(7/27遺体発見)も、日本人離れしたプレイと言動で毀誉褒貶のある選手でした。千葉ロッテマリーンズや米メジャーリーグのニューヨークヤンキースなどで活躍した伊良部は2005年の現役引退後、アメリカで永住権を得たものの亡くなる直前には日本へ帰りたいと漏らしていたともいいます。

 伊良部が活躍した1990年代、日本野球機構にあってプロ野球の国際化やフリーエージェント制の導入に尽力したのが第9代コミッショナー吉國一郎(9/2)です。法務庁出身の吉國は、1989年のコミッショナー就任以前には千葉県知事の沼田武(11/26)が千葉市幕張新都心開発の目玉として建設を進めた日本コンベンションセンター幕張メッセ)の初代社長も務めました。

 東京では21世紀初めにも開発ブームが起こりました。氏家齊一郎日本テレビ会長在任中の2003年には、汐留に新社屋(日本テレビタワー)が完成、翌年より営業を開始しました。汐留にはこれより一足先の2002年に電通本社ビルが竣工しています。当時の電通会長である成田豊(11/20)は、氏家とは新社屋だけでなくジブリ映画の製作者としても名前を連ねた人物です。

 電通の新社屋が完成したこの年、成田が実現に向け力を注いだ日韓共催FIFAワールドカップが開かれました。FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会での「なでしこジャパン」の優勝に日本が沸いた2011年は、サッカー界でも訃報があいつぎました。銅メダルに輝いた1968年のメキシコ五輪サッカーの日本チームでキャプテンだった八重樫茂生(5/2)、八重樫とともに同五輪に出場したのち、日本代表監督や浦和レッズの初代監督を務めた森孝慈(7/17)、それから90年代以降、五輪やW杯で活躍した松田直樹横浜・F・マリノスから松本山雅FCに移籍した今年、練習中に突然倒れ、34歳の若さで亡くなっています(8/4)。

 前出の氏家齊一郎が東大在学中、先輩の渡邉恒雄とともに学生運動に入れこんでいたことはよく知られています。1950年、東横映画が戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』の映画化を企画した際、その内容に氏家らの所属する東大全学連は思想的な理由から横槍を入れました。当時、東横映画の若きプロデューサーであった岡田茂(5/9)は、氏家を呼び出し説得にあたったといいます。東横映画は同作のヒットの翌年、合併により東映となります。岡田は60年代に任侠路線を発案して大成功を収め、1971年には社長に就任しました。岡田社長時代の東映は、映画産業が斜陽を迎えるなか『仁義なき戦い』(1973年)に始まる実録路線を当て、さらに角川映画との提携で山をつくります。なかでもミュージシャンのジョー山中(8/7)が出演、主題歌も歌った『人間の証明』(1977年)はメディアミックスの効果もあり爆発的にヒットしました。

 それにしても、岡田といい氏家や成田といい、また講談社の社長の野間佐和子(3/30)といい、2011年は巨大メディアの経営者たちの逝去が目立ち、時代の曲がり角を感じさせました。そのことをより印象づけたのはやはり、7月に実施された地上波テレビのデジタル放送への全面移行(ただし東北3県を除く)でしょう。地デジ化は視聴者、とくに若年層のテレビ離れにますます拍車をかけるのではないかとも懸念されています。しかしじつはこれより前、1980年前後にも若者のテレビ離れが進んでいたといいます。いま一度若者たちをテレビの前に引き戻すべく、フジテレビのプロデューサーだった横澤彪(1/8)が仕掛けたのが『THE MANZAI』(1980年。2011年には漫才グランプリとして復活しましたね)であり、それから『オレたちひょうきん族』(1981年)や『笑っていいとも!』(1982年)といったバラエティ番組でした。これら番組は、お笑いの世界に“フィクションからノンフィクションへ”ともいうべき革命をもたらします。

 上記のうち『ひょうきん族』は、『THE MANZAI』で人気を集めた漫才コンビをバラして起用した点でも画期的といわれます。もっとも、放送作家出身のタレント・前田武彦(8/5)が大橋巨泉と司会を務めたバラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(1969年)ではすでに、当時人気絶頂にあったコント55号坂上二郎(3/10)と萩本欽一が2人別々でコントを演じていました。

 横澤彪は『いいとも』に、NHKを定年退職したばかりだったテレビディレクターの和田勉(1/14)をレギュラー出演者として引っ張り出してもいます。テレビ本放送の始まった1953年にNHKに入局した和田は、演劇とも映画とも異なるテレビドラマならではの表現を模索し続け、女性脚本家の草分けのひとりである大野靖子(1/6)と組み、『天城越え』(1978年)や『ザ・商社』(1980年)といった名作も生みました。また、2011年に没後30年を迎えた向田邦子とも『阿修羅のごとく』(1979年)などの作品を手がけています。向田作品といえば、その常連俳優として『だいこんの花』『七人の孫』に出演した竹脇無我(8/21)、『あ・うん』『父の詫び状』に出演した杉浦直樹(9/21)が思い出されます。

 向田の死後、その年のもっともすぐれたテレビドラマの脚本に与えられる賞として「向田邦子賞」が制定され、第1回には市川森一(12/10)の『淋しいのはお前だけじゃない』(1982年)が選ばれました。市川はNHK大河ドラマでも3度脚本を手がけており、その最初の作品『黄金の日日』(1978年)では徳川家康児玉清(5/16)が演じ、セリフは少ないものの存在感を示して評判になったそうです。

 いくら“終わったコンテンツ(オワコン)”といわれようとも、テレビの威力にはいまだに大きなものがあります。2001年9月11日に起きたアメリカでの同時多発テロは、テレビを通じて全世界の人たちにインパクトを与えるという効果を意識して実行されたものとも考えられます。この事件の首謀者とされるテロ組織「アルカイダ」の指導者オサマ・ビンラディンパキスタン国内に潜伏中、米軍により殺害されたと報じられました(5/2)。

 ビンラディン以外にもテロリスト、あるいは政治活動家の物故が目立った1年でもありました。たとえば、60年代末の東大紛争や成田空港建設反対運動(三里塚闘争)などにかかわり新左翼のイデオローグとして知られた荒岱介(5/3)、1970年の赤軍派によるよど号ハイジャック事件の最年少メンバー(当時16歳)だった柴田泰弘(6/23遺体発見)、アラブに渡った日本赤軍のメンバーで、1970年代にいくつかのハイジャック事件に関与した丸岡修(5/29)があげられます。ちなみに、よど号事件のさい赤軍派は「われわれは明日のジョーである」(原文ママ)と宣言しましたが、出崎統(4/17)監督によるテレビアニメ『あしたのジョー』の放映が始まったのは事件発生の翌日(70年4月1日)でした。出崎はその後1980年と81年には同作の劇場版を手がけ、このとき主人公・矢吹丈のライバル力石徹の声を俳優の細川俊之(1/14)があてています。

 赤軍派からは前記のよど号グループや日本赤軍のほかに、革命左派(京浜安保共闘)と統一をはかった連合赤軍が派生しています。連合赤軍は1971年から翌年にかけて群馬山中で軍事訓練を行ないましたが、警察の山狩りにより幹部である森恒夫永田洋子(2/5)が逮捕されました。長野県軽井沢の別荘地で起こったあさま山荘事件は、残されたメンバーたちが逃亡の末に引き起こしたものです。この事件のあと、連合赤軍内で「総括」と称するリンチ殺人が行なわれていたことが判明、社会に大きな衝撃を与えます。これをきっかけに若者たちによる政治運動は退潮の一途をたどることになりました。

 映画監督の長谷川和彦は長らく連合赤軍を題材にした映画を構想していて、そのなかで永田洋子樹木希林が、森恒夫原田芳雄(7/19)が演じることを考えていたそうです。映画でアウトロー的な役を数多く演じた原田だけに、実現していたらどんな演技を見せたのか気になるところです。

 さて、学生運動の熱は、カウンターカルチャーサブカルチャーといわれるものに移っていった観があります。たとえば60年代末に全国に広がった学園紛争の火元のひとつである日本大学では、森田芳光(12/20)が紛争中で学校に行けなかったから……との理由で映画を撮り始めます。森田は、従来の撮影所経由ではない自主制作映画から劇場映画に進出した監督の嚆矢でもありました。

 連合赤軍事件の起こった1972年には、佐藤嘉尚(11/19)が発行人を、当代の人気作家が交代で責任編集を務めるというユニークな雑誌『面白半分』が創刊しています。同誌は、野坂昭如が責任編集を務めた号で永井荷風作と伝えられる戯作「四畳半襖の下張」を掲載したところ、警視庁から猥褻文書として告発を受けました。佐藤と野坂を被告とする「四畳半襖の下張」裁判はこれより前、1960年代にサドの『悪徳の栄え』をめぐり訳者の澁澤龍彦と発行人(現代思潮社社長)の石井恭二(11/29)が被告となった「サド裁判」などとともに文芸作品をめぐる代表的な猥褻裁判として知られます。

 SMのうちS(サディズム)は、いうまでもなくサドの名に由来します。戦後まもなくに創刊されたSM雑誌『奇譚クラブ』からは、沼正三の「家畜人ヤプー」という稀代の奇作が生まれました。沼は覆面作家であり、その正体が長らく取沙汰されてきたのですが、1982年に東京高裁判事の倉田卓次(1/30)とする説が雑誌に掲載され物議をかもしています(ただし本人はこれを否定)。マゾヒストの核心を突いた本格的なM小説「ヤプー」について、「私の持つ嗜好趣味とは反対の被虐趣味の分野に入るものだが、その卓絶した文章力に驚かされた」と評したのは、同じ雑誌にS小説「花と蛇」を連載した団鬼六(5/6)です。

 60年代から70年代にかけてはサブカルチャーを語ろうという動きも活発に起きました。音楽評論家の中村とうよう(7/21)が1969年に、新しい音楽としてのロックを批評的に論じるべく『ニューミュージック・マガジン』(現『ミュージック・マガジン』)を創刊したのはその走りといえます。また、マンガ評論家の亜庭じゅん(1/21)らは『迷宮』というマンガ批評集団の活動を進めるなかで、同人誌即売会の開催を思い立ちます。こうして1975年に始まったのがコミックマーケットでした。コミケは、イデオロギーなど既成の価値観にとらわれず自分たちの言葉でマンガを語ろうという亜庭たちの情熱の産物だったともいえます。

 自分の言葉を持とうとしたという点では、同時期に一世を風靡した女性アイドル3人組のキャンディーズも同じでした。1977年の彼女たちの「普通の女の子に戻りたい」という突然の解散宣言には、事務所など周囲からのお仕着せではなく自分たちの意思で行動したいという願望がこめられていたように思います。翌年の後楽園球場でのキャンディーズ解散コンサートののち、メンバーのひとりだった田中好子(4/22)は一時活動休止を経て、女優として芸能界に復帰します。自分の言葉で語るという姿勢は、その葬儀で流された病床からの最期のメッセージにもしっかり表れていました。

 田中の女優としての代表作である映画『黒い雨』(1989年)では脚本を石堂淑郎(11/1)が手がけています。石堂は映画以外にテレビでの仕事も多く、北杜夫(10/24)の長編小説を原作としたドラマ『楡家の人びと』の脚色も手がけています。

 キャンディーズのレコードは、当時まだ新興のレコード会社だったCBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックレコーズ)からリリースされました。1968年の同社設立に携わり、キャンディーズのほか南沙織山口百恵などといったアイドル路線を敷いたのが、東京芸大卒の元声楽家でのちにはソニー社長、会長を歴任した大賀典雄(4/23)です。

 大賀はオランダのフィリップス社と共同でのコンパクトディスクの開発にも深くかかわり、1982年に商品化します。CDは前後してソニーが送り出したウォークマンとともに世界的なヒット商品となります。が、ソニーはCDにより音楽のデジタル化に、ウォークマンでは携帯音楽プレイヤーという新分野にそれぞれ端緒を開いたにもかかわらず、両者の融合であるデジタルオーディオプレイヤーによって世界を席巻することはできませんでした。代わりにそれを達成したのは、米アップル社の前CEOスティーブ・ジョブズ(10/5)が2001年に送り出した「iPod」でした。ソニーがこの分野で失敗したのは、傘下にレコード会社を持つゆえ著作権保護を優先しなければいけない事情もあったと説明されます。

 ジョブズの亡くなる前日に発売された最新鋭のスマートフォンiPhone 4S」には音声認識人工知能が組みこまれていました。人工知能(AI)という言葉を発案し、その研究の第一人者となったのがジョン・マッカーシー(10/24)です。このほか、コンピューターの標準オペレーティングシステムである「UNIX」を開発したデニス・リッチー(10/12)や、著作権の切れた古典作品をネット上に掲載していく「プロジェクト・グーテンベルク」の提唱者で、“電子書籍の父”とも呼ばれるマイケル・S・ハート(9/7)も、コンピューターと電子文化の歴史に大きくその名を刻みました。

 テレビやコンピューターの登場する以前から、テクノロジーは人間の知覚や感性にさまざまな影響を与えてきました。旧東ドイツ出身のドイツ文学者・メディア理論家のフリードリヒ・キットラー(10/18)や、広範な批評で知られた多木浩二(4/13)は、家具・印刷物・写真・蓄音機・映画・タイプライターなどといったモノを通じて文化史を考察しています。モノと人間の関係といえば、日本の工業デザイナーの草分けである柳宗理(12/25)は、デザイナーはタッチしていないものの、その用途に即して自然とデザインされたモノ(たとえば野球のボールの縫い目など)に美を見出し、それを匿名のデザイン、「アノニマス・デザイン」と呼びました。こうした見方は、彼の父・柳宗悦が興した民藝運動の精神を継承したものでもありました。

 落語にもまた匿名の芸という側面があると思うのですが、噺を演じるなかでどうしても“私”を出さずにいられなかったのが落語立川流家元の立川談志(11/21)でした。「落語とは、人間の業の肯定である」と定義した談志は、業とはその良し悪しに関係なくやらずにはいられないものであり、それがあったからこそ「文明」も生まれたと説明しています。さらに、文明から取り残されたものに光を当てたものを「文化」と呼び、「文明は、文化を守る義務がある」と言っているのが面白い。

 談志の考えにならうなら人類は業にしたがって自然を征服し、快適な生活を手に入れたわけですが、その代償は小さくありませんでした。21世紀に入るとノーベル平和賞でも環境保全の分野が選考対象に加えられ、ケニアの環境活動家であるワンガリ・マータイ(9/25)がその最初の受賞者(2004年)となりました。

 60年代、工業化の次に来る社会を示した「脱工業(化)社会」という概念がアメリカの社会学者ダニエル・ベル(1/25)によって提唱されます(著作としてまとめられたのは1973年ですが)。来たるべき社会を特徴づけるものとして情報を重視したベルの言説に対応する形で、同時期の日本では「情報化」という語が、経済企画庁の官僚から大学教授に転じた林雄二郎(11/29)らによって発案されました。林は民族学者の梅棹忠夫を中心とするサロンにも参加し、そこに集まった作家の小松左京(7/26)たちとの議論はやがて日本未来学会の設立、そして1970年の大阪万博へと発展していくことになります。

 父親から継いだ町工場を経営していた昭和30年代に、関西の民放ラジオで夢路いとし・喜味こいし(1/23)の漫才番組の台本を書いていたこともある小松は、同時期よりSF小説を書き始め、1973年には9年がかりの長編『日本沈没』を刊行しました。その作中には「戦後の三十余年間、日本の、とくに大都会の人々は、巨大な災害に対して、瞬間的に身を処するマナー――戦前までに、大火や地震や水害などの数百年間を通じて形成されてきた『災害文化』ともいうべきものをきれいに失ってしまっていた」という一文が出てきます。岩手県出身の津波研究家・山下文男(12/13)は、津波のときは他人をかまわずてんでばらばらに逃げなさいと教える「津波てんでんこ」という三陸地方の言い伝えを広め、先の東北を襲った大津波でも少なからぬ人たちが救われました。「災害文化」とはまさにこういうものを指すのでしょう。

 小松自身も1995年の阪神・淡路大震災を体験しています。この震災について、彼は新聞連載で1年をかけてさまざまな角度からルポを行ない『小松左京の大震災'95』という本にまとめました。東日本大震災のあとには、将来の自然災害に備えるべく、様々な分野の専門家を組織して「総合防災学会」をつくれないかと提案をしたり、共著『3・11の未来』の序文で「私は、まだ人間の知性と日本人の情念を信じたい。この困難をどのように解決していくのか、もう少し生きていて見届けたい」と書いた小松でしたが、まもなくして亡くなりました。阪神・淡路大震災ののち神戸市では当時の市長・笹山幸俊(12/10)のもと復興計画が推し進められましたが、果たしてこのときの経験が今回の震災からの復興にどれだけ活かせるでしょうか。

 ……と、まあ、このほかにもまだまだとりあげたい人物はいるのですが、これ以上あちこちへ行ったり来たりすると、声優の滝口順平(8/29)よろしく「おやおや、また寄り道ですか〜」なんて言われそうなので、ひとまずこのへんにしておきましょう。それにしてもこうして振り返ると、ひとつの時代が終わったような思いをつくづく抱きます。ただ一方で、安易に「時代の終焉」を口走るのは、原発の事故処理のある段階の終了をもって「事故の収束」を宣言するのと同じくらい性急な判断ではなかろうか、と思ったりもします。とりあえずここは、ひとつのステップが終わったぐらいに考えて、彼ら、彼女たちの遺したもの(負の影響も含めて)を糸口に、2012年以降のビジョンを見出したいところです。

 最後にあらためて、本稿でとりあげた人たちに加えて、東日本大震災で亡くなった人びとにも哀悼の意を表しつつ本稿を締めたいと思います。

  (初出 「ビジスタニュース」2011年12月27日)

「国のかたち」を問うた2012年物故者たち

 北方領土竹島尖閣諸島と、日本と近隣諸国のあいだで領土問題があらためて再燃するなど、日本の戦後史上、2012年ほど「国のかたち」が問い直された年はないかもしれない。このうち尖閣諸島をめぐっては中国国内で反日デモが激化した。その混乱のさなか、中国大使の丹羽宇一郎の後任として、外務省生え抜きの西宮伸一に辞令が下るも直後に急死している(9/16。以下、カッコ内の日付は故人の命日を示す)。

 領土問題のみならず、年末の総選挙では、景気回復、雇用、社会保障、TPPに代表される貿易自由化の問題、エネルギー問題、地方分権、はたまた憲法改定と、「国のかたち」の再規定をうながす案件が争点となった。選挙の結果、民主党から自民党へ政権が戻り、同時に前年の震災からの復興、原発事故の処理という課題も引き継がれた。

 原発事故の損害賠償をめぐっては、1970年代の公害裁判を参考にするべきだとの意見も見られる。とはいえ、高度成長期に生じた公害問題は完全に解決したわけではない。水俣病については、その症状がありながら、国の基準では患者と認められない人たちもまだかなり存在する。そんな人々を救うべく「水俣病被害救済特別措置法」が2009年に施行されたものの、同法にもとづく救済策の申請は2012年7月末をもって締め切られた。50年以上にわたり水俣病と向き合い続けた医師の原田正純(6/11)は自らも白血病と闘いながら、死の直前まで少しでも多くの未認定患者らが救済を受けられるよう奔走した。

 それにしても、国家とはそもそも何だろうか。評論家の吉本隆明(3/16)は『共同幻想論』(1968年)においてこの難題に取り組んだ。同書は、1960年代後半に隆盛をきわめた学生運動のなか多くの若者たちが手に取ったとされるが、内容の難解さゆえ読破できた者は案外少ないかもしれない。だがもともと詩人である吉本が用いた「共同幻想」という言葉のインパクトは強かった。それが実際に意味するところを理解する人は少なくとも、大きな影響をもたらすにいたった。

 吉本は『共同幻想論』のなかで、『古事記』や『日本書紀』に見られる国生み神話を参照している。こうした神話は日本のみならず南太平洋の島々にも見られるものらしい。映画『モスラ』(1961年)で伊藤エミ(6/15)・ユミによる双子の姉妹デュオ「ザ・ピーナッツ」が演じた「小美人」と怪獣モスラの関係は、こうした神話を踏まえつつ創作されたものだった。

 巨大な蛾の姿をしたモスラは、カイコがモデルになっている。カイコの繭から糸を引いて絹をつくる方法は、日本を含むアジアの広い地域に見られる文化的特色の一つだ。この地域が常緑広葉樹の広がる森林帯であることに目をつけ、そこでの文化の共通性を探ったのが、哲学者の上山春平(8/3)ら京都大学人文科学研究所の学者たちによる『照葉樹林文化』(1969年)である。上山はこのほかにも世界史との比較による日本国家の特質を探究している。

 現実の国家は、まずもって国際的な承認を前提とする。パティ・ロイ・ベーツ(10/9)は1967年、第二次大戦中にイギリス軍がつくった人工島の海上要塞を占拠し、「シーランド公国」として独立を宣言した。しかし、シーランド公国を承認する国はついに現れなかった。

 これに対し、カンボジアの前国王ノロドム・シアヌーク(10/15)が、1982年に共産主義ポル・ポト派と共和主義のソン・サン派とともに発足させた「民主カンボジア連合政府」は、行政機関を持たない典型的な“ペーパー・ガバメント”であったものの、カンボジアの正統政府として多くの国から承認され、1989年までは国連での代表権も与えられていた。1978年のベトナムの侵攻以降、カンボジアは事実上、親ベトナム政権の支配下にあったが、シアヌーク派をはじめ各勢力はこれに対抗するべく、本来敵対する関係にありながら反ベトナムという名目だけで手を結んだのだ。もっとも、連合政府の大統領であったシアヌークは当時、海外亡命中の身にあった。

 シアヌークは1955年に政権掌握のため一旦王座から退き、1993年に新生「カンボジア王国」の国王に復帰するまでは「殿下」と呼ばれることが多かった。日本でも三笠宮家の第一王子、?仁親王(6/6)は「ヒゲの殿下」として国民から親しまれた。福祉活動に専念するべく一時、皇籍離脱を宣言して話題を呼んだ親王は、マスコミを通じて将来の皇室のあるべき形などを率直に語った異色の皇族であった。

『裏声で歌へ君が代』……といっても、これは大阪市の公立高校の教職員の合言葉ではない。作家の丸谷才一(10/13)が1982年に発表した長編小説のタイトルだ。小説の形をとった国家論ともいうべき同作には、台湾の独立問題が重要なモチーフとして登場する。「金儲けの神様」と呼ばれた経営コンサルタントで作家の邱永漢も戦後まもなく、東大を卒業すると生まれ故郷である台湾に戻り独立運動に参加している。その直木賞受賞作『香港』(1956年)など初期作品も、日本と中国のあいだで不条理にも揺れ動く台湾人のアイデンティティを問うものであった。

 韓国の文鮮明(9/3)が創始した世界基督教統一神霊協会統一教会)における、神を中心に人類一家族の世界をつくろうという理念は、やはり朝鮮半島の分断という時代背景抜きには語れない。統一教会の布教活動は「原理運動」と呼ばれ、信者と家族間でトラブルが生じるなど日本でも社会問題化した。

 ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス(1/24)は、バルカン半島の複雑な歴史を背景に『ユリシーズの瞳』(1996年)などの作品を残した。アンゲロプロスと同じ1936年生まれの若松孝二(10/17)もまた、ピンク映画、一般映画にかかわらずその多くの作品において国家と個人の関係について鋭くえぐりだした。近年も『キャタピラー』『11・25自決の日 三島由紀夫の若者たち』、そして遺作となった『千年の愉楽』(2013年春公開予定)とほぼ毎年のように意欲作を発表していた。両監督とも奇しくも交通事故による突然の死であった。

 若松の作品でもとりあげられた三島由紀夫は、日本映画において一種タブーともいえるテーマだった。1985年にアメリカ人監督によって撮られた伝記映画『Mishima』はいまだに日本では正式に公開されていない。同作で美術を手がけたのが、アートディレクターでデザイナーの石岡瑛子(1/21)である。石岡はこれを機に国際的に活躍するようになる。広告の世界から出発した彼女のデザインの対象は、出版物、展覧会、CDジャケット、舞台美術、サーカス、映画衣裳(2012年公開の『白雪姫と鏡の女王』がその遺作となった)など多岐にわたった。

 石岡は、1970年代に手がけたファッションビル「パルコ」の一連の広告によって脚光を浴びた。かつてセゾングループの経営戦略において尖兵的役割を担ったパルコだが、同グループの解体後は森トラストに買収され、2012年にはさらにJ.フロント リテイリングに譲渡された。森トラストの社長である森章と、森ビルの前社長・森稔(3/8)は実の兄弟ではあるが、現在両社のあいだに資本関係はない。

 弟の章が堅実な経営方針をとったのに対し、兄の稔は父から受け継いだ貸しビル業に飽き足らず、東京都心の土地を集約し、高層ビルを中心とした職住接近の新たな都市開発に人生を捧げることになる。2003年にオープンした「六本木ヒルズ」はその代表作である。

 森は文化事業にも力を入れ、六本木ヒルズの森タワーの最上部には森美術館を設けている。森美術館では2011年から翌年にかけて「メタボリズムの未来都市展」が開催された。メタボリズムとは1960年代に新進気鋭の建築家やデザイナーたちによって提唱された運動だが、その中心的メンバーの一人だった建築家の菊竹清訓(2011年12/26)はくだんの回顧展の会期中に逝去している。菊竹らメタボリズムグループは、高度成長期に膨張を続けた大都市で生じていた様々な問題を解決するため、大胆なプロジェクトを続々と発表した。そのほとんどは実現しなかったものの、菊竹らメンバーはその後も国内外の都市計画や国土開発で重要な役割を担うことになる。

 ブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤー(12/5)は、同国の新首都ブラジリアの建設にかかわったことで知られるが、自分はあくまで政府機関など個々の建物を設計したにすぎず、ブラジリアの業績はその都市計画を統括したルシオ・コスタのものだと語っている。20世紀には、ニーマイヤーが多大な影響を受けたフランスの建築家ル・コルビュジエとともに、ドイツのデザイン学校「バウハウス」によって機能的なモダンデザインが世界に広まった。日系2世としてアメリカに生まれた写真家・石元泰博(2/6)は、第二次大戦後のシカゴでバウハウス直系のデザイン教育を受けている。

 石元は写真を通じて社会とのかかわりを積極的に持とうとした。その原点は、デザイン学校在学中に、東京裁判での東條英機を撮った写真を雑誌で見たことにあった。このとき彼は、「東條に同情するカメラマンはいい顔を撮るし、彼を否定する者は逆の撮り方をする。写真家は政治家にならなくとも、一枚の写真で世論をリードできると思った」という。

 元首相・東條英機の次男、東條輝雄(11/9)は戦前には零戦の開発、さらに戦後初の国産輸送機YS-11の開発にかかわったエンジニアだった。YS-11開発にあたり各メーカーからエンジニアを集めた寄り合い所帯「日本航空機製造」にあって設計部長を務めた東條は、部下たちに自分の考えを押しつけることなく、十分議論させたうえで最終的な判断を下したという。のちに彼は三菱自動車の社長も務めた。富士通の社長を務め「中興の祖」と呼ばれる山本卓真(1/17)も技術畑出身であり、国産コンピュータ開発を手がけた経験を持つ。

 戦後しばらく航空機の製造が禁じられ、航空宇宙産業で出遅れた日本に対し、アメリカはこの分野で世界をリードした。1961年には当時のケネディ大統領の「1960年代の終わりまでに人間を月に送りこむ」との演説を受け、NASAアメリカ航空宇宙局)によるアポロ計画が開始された。歌手アンディ・ウィリアムス(9/25)の「ムーン・リバー」が大ヒットした1962年、ニール・アームストロング(8/25)は宇宙飛行士に選抜され、その7年後の1969年7月20日アポロ11号の船長として月面に人類初の第一歩を記すことになる。

 月面着陸の成功ののち人類はさらに遠い天体をめざすことになると思われたが、1972年にアポロ計画が終了して以来、いまのところ人は月より先には行っていない。それでも無人探査機による天体の探査は続けられ、2012年8月には火星にNASAの探査車が着陸、その着陸地点は「ブラッドベリ」と命名された。その名は、アメリカの作家で『火星年代記』(1950年)を書いたレイ・ブラッドベリ(6/5)からとられている。

 ブラッドベリのいまひとつの代表作『華氏451度』(1953年)は、執筆当時、全米に吹き荒れていたレッドパージ共産主義者追放)の嵐に抗して生まれたものとされる。しかしそうした政治的な弾圧以前にブラッドベリが危惧したのは、高度に発達した技術やメディアを手にした人々が思考停止に陥ることだったのではないか。彼は同作のある版のあとがきで、自宅近所で犬を散歩していた女性が、小型ラジオで音楽を聴くのに夢中になり危なっかしく歩くさまを見てショックを受けたと書いている。この話のラジオを携帯電話などに置き換えれば、現在にそっくり当てはめることができるだろう。晩年、彼が自作の電子書籍化のオファーを拒否したことも、こうしたエピソードを読むと腑に落ちる。

 音楽評論家の吉田秀和(5/22)は、「薄気味の悪い話」(1974年)というエッセイのなかで、ある国際機関から自著や論文を登録したと逐一通知されることに対し、自分の仕事を自分があずかり知らないところで見張られ、番号をつけられ、資料として扱われるようになるというのは、薄気味悪いことだと書いている。何でもかんでも情報化して整理保存するという、現代文明の一つの特徴に対し、吉田は疑念を訴えたのだ。

 吉田は新聞での連載エッセイやラジオ番組、あるいはコンサートなどを通じて一般向けにクラシック音楽や現代音楽を紹介することにも熱心だった。また1948年には桐朋学園付属の「子供のための音楽教室」の創設にも参加している。ここで室長を務めたのが作曲家の別宮貞雄(1/12)だ。作曲家としての別宮は、戦後隆盛をきわめた前衛音楽を真っ向から批判している。これに対し、同じく戦後を代表する作曲家の一人、林光(1/5)は積極的に前衛的手法を作品に採り入れた。林はまたラジオやテレビの劇伴のほか、映画音楽も多数手がけている。とりわけ新藤兼人(5/29)の監督作品は本数からいって断トツである。

 新藤の作品には林が音楽を担当した『第五福竜丸』(1959年)や『さくら隊散る』(1988年)など、原水爆による悲劇をテーマにしたものが少なくない。マンガ『はだしのゲン』(1973年)の作者・中沢啓治(12/19)のように被爆経験こそないものの、広島出身の新藤は作品を通じて反核反戦を一貫して主張し続けた。

 新藤は生涯に2度結婚しているが、女優の乙羽信子は2番目の妻となる。乙羽は宝塚歌劇の娘役時代に、男役スターの春日野八千代(8/29)と共演することが多く、終戦直後、「ゴールデンコンビ」として人気を集めた。1950年代には乙羽や淡島千景(2/16)ら大勢のタカラジェンヌたちが映画界に引き抜かれたが、そのなかにあって春日野は亡くなるまで宝塚に在籍した。彼女が宝塚に入ったのは少女歌劇がブームになっていた昭和初期のこと。宝塚と松竹歌劇団が人気を競ったこの時代は“少女の時代”であったのかもしれない。ちょうど同時期には、1932年に12歳でデビューし国際的に活躍したバイオリン奏者の諏訪根自子(3/6)が「天才少女」として注目された。

 女優の森光子(11/10)も宝塚歌劇に憧れた少女の一人であった。その出発点は映画だが、むしろ舞台、そしてラジオやテレビの世界で活躍することになる。終戦後は長く病気のため休業したのち、再起をかけて放送局に自分を売りこんでまわった。関西出身の森は、地元企業である松下電器(現・パナソニック)とのかかわりも深く、フィルムではなくスライドによる同社の洗濯機のCMに出たのが最初だという。出演したテレビドラマの多くも松下提供の番組であった。母親役のイメージが定着していた森と、家電メーカーである松下の企業イメージがマッチしたということだろうか。

 最終的に2017回を数えるロングランとなった森主演の舞台『放浪記』の上演が始まった1961年、松下電器では創業者・松下幸之助の後継社長としてその娘婿の松下正治(7/16)が就任する。同社を総合エレクトロニクス企業へと育てあげた正治のあと、1977年には山下俊彦(2/28)が新社長となる。取締役26人中25番目の末席にあった山下の異例の抜擢は「山下跳び」と呼ばれ話題を呼んだ。社長就任後の彼は、経営体質改善など抜本的な改革に取り組むことになる。

 山下はかつて松下の系列会社であるウエスト電気(現・パナソニック フォト・ライティング)に出向、経営を建て直した実績があった。住友銀行(現・三井住友銀行)の副頭取だった樋口廣太郎(9/16)も、1986年に当時経営不振に陥っていたアサヒビールに社長として乗りこみ、アサヒスーパードライのヒットもあって見事再建を果たした。

 あるいはJR東日本の副社長だった細谷英二(11/4)は2003年、経営危機に陥ったりそなホールディングスの会長に転じ、公的資金を使って不良債権の処理にあたるとともに、サービス強化など経営改革に取り組んだ。そのなかでりそなは、中小企業や個人を主な取引相手とするリテールバンクへの転換をはかり、必然的に大手企業を切り捨てることになった。細谷が敷いたこうした路線は、事業拡大に積極的だった樋口とは対照的といえる。もっとも樋口の社長時代には、バブル景気という追い風もあった。

 1980年代後半、急激な円高などに対応するべくとられた低金利政策により、市中には潤沢な資金が流入し、株や土地への投機ブームが起こった。これがバブルの原因だが、地価の高騰などが社会問題化した。1989年末に日本銀行総裁に就任した三重野康(4/15)は翌90年8月まで3回にわたり公定歩合の引き上げを行なったことから、「バブルつぶし」「平成の鬼平」と国民からもてはやされることになる。もっとも当の三重野は、公定歩合引き上げについて、地価抑制の効果はあるのだろうが、それ自体を目的に行なったわけではないという意味の発言をしているのだが。

 池波正太郎の時代小説の主人公に由来する「平成の鬼平」というネーミングは、国民の三重野への期待を反映したものだったのだろう。同時期には、政界にもユニークなニックネームを持った政治家が存在した。たとえば社会民主連合社民連)の楢崎弥之助(2/28)は、独自に入手した資料にもとづく安全保障・防衛問題、汚職への追及で知られ「国会の爆弾男」と称された。リクルート事件が持ちあがった1988年には、自身がリクルートの子会社の社員から、国会での追及に手心を加えてくれるよう贈賄を持ちかけられた様子をビデオで隠し撮りして公開している。

 一方、「政界の暴れん坊」と呼ばれた自民党浜田幸一(8/5)はやはり1988年、衆院予算委員長の立場から、ときの共産党議長を殺人者呼ばわりして委員長を辞任に追いこまれる。この発言はテレビ中継を多分に意識したものだったようだ。1993年の政界引退後はテレビ出演も多く、『TVタックル』での政治評論家の三宅久之(11/15)との丁々発止のやりとりでも記憶される。

 浜田は晩年、ツイッターを始めてあらためて注目されることになった。同様に将棋棋士(永世棋聖)の米長邦雄(12/18)もツイッターで人気を集めた。2003年に現役を引退した米長だが、2012年1月にはコンピュータの将棋ソフト「ボンクラーズ」との対局に挑むも敗れたことは記憶に新しい。

 米長はコンピュータとの対局以前に、アマチュアとの対局をネットで中継したことがあった。そこには、新しいツールを通じて広く将棋の面白さを知ってもらいたいという思いがあったはずだ。全日本男子バレーボール監督だった松平康隆(2011年12/31)もまた、1972年のミュンヘン五輪に向けて、公開練習やテレビアニメ『ミュンヘンへの道』の放映などによりファン層を拡大、金メダル獲得へのムードづくりを演出した。さらに日本バレーボール協会会長時代の1995年には、W杯を主催するフジテレビからジャニーズ事務所とのコラボレーションにより観客動員をはかりたいと提案され、「そういう提案を待っていた」と快諾したという。

 ジャニーズとの関係といえば、やはり前出の森光子が思い出される。ワイドショー『3時のあなた』の司会を務めたことでも記憶される森は、ドラマではない番組に出ることについて、放送評論家の志賀信夫(10/29)によるインタビューのなかで「山田五十鈴さんが、いま大根一本いくらって知らなくても、それは似合うと思うんです。私の場合そういうのは似合わないし、知りたいという欲望と願望もありますしね」と語っている(『テレビを創った人びと』)。浮世離れした山田五十鈴(7/9)と庶民派の森は同じ女優でもそのキャラクターは対照的だった。だが、映画出身でのちに舞台へ進出したこと、後年文化勲章を受章したこと、ついでにいえば本名が「美津」であることなど意外と共通点は多い。

 2012年はこのほかにも名優たちの逝去があいついだ。なかには互いに共演経験のある者も少なくない。たとえば二谷英明(1/7)は刑事ドラマ『特捜最前線』(1977年)で大滝秀治(10/2)と共演、二谷の葬儀には大滝も参列している。あるいは小沢昭一(12/10)はその映画デビュー作『広場の孤独』(1953年)で、当時全盛期にあった津島恵子(8/1)と共演している。津島はNHK連続テレビ小説『さくら』(2002年)で内藤武敏(8/21)と共演、ちなみに同作でナレーションを務めたのは大滝秀治であった。このほか、映画『男はつらいよ』シリーズ全48作を通じておばちゃんこと車つね役を演じた三崎千恵子(2/13)、日本の女優として初めてヌードになった馬渕晴子(10/3)、海外では映画『エマニエル夫人』(1974年)に主演したオランダの女優シルビア・クリステル(10/17)も亡くなっている。

 日本映画界で長年、録音技師を務めた橋本文雄(11/2)が携わったあまたの作品のひとつに『幕末太陽傳』(1957年)がある。川島雄三が監督した同作には、川島作品常連の小沢昭一のほか、デビューまもない二谷英明も出演していた。のちの作家・藤本義一(10/30)はこの映画に感動して、川島に弟子入りしている。

 藤本は、直木賞を受賞した『鬼の詩』(1974年)が明治時代の落語家を主人公にしたものだったことからもうかがえるように、演芸にも造詣が深く、新人コンクールなどで審査員を務めたほか若手漫才師の勉強会「笑の会」を主宰し、同会からは太平サブロー・シロー(2/9。コンビ解消後「大平シロー」となる)などが輩出された。なお藤本が司会を務めたテレビのナイトショー『11PM』には、1973年末、「女のみち」を大ヒットさせた歌謡グループ「宮史郎とぴんからトリオ」の元メンバーが出演している。このときグループはすでにリーダーの並木ひろしと、宮史郎(11/19)とその兄の宮五郎による「ぴんから兄弟」とに分裂しており、番組内では握手して和解を演出したものの、ついにトリオに戻ることはなかった。

 マンガ家・土田世紀(4/24)の『編集王』(1994年)に登場するマンガ誌の副編集長「宮史郎太」は宮史郎をモデルにしたキャラクターだった。マンガ業界を舞台にしたマンガはおそらく梶原一騎原作による『男の条件』(1968年)あたりが嚆矢と思われる。梶原の実弟真樹日佐夫(1/2)も兄と同様にマンガ原作を手がけ、その代表作には影丸穣也(4/5)と組んだ『ワル』(1970年)がある。同作の映画版には俳優の安岡力也(4/8)も出演した。

 土田と同じく宮沢賢治を愛したマンガ家・畑中純(6/13)は『まんだら屋の良太』(1979年)で、架空の「九鬼谷温泉」を舞台に男女の愛欲を情感たっぷりに描いた。マンガの文化史的価値に早い段階で気づいた内記稔夫(6/1)は、1978年に現代マンガ図書館を設立、2009年にはその所蔵資料を明治大学に寄贈している。メビウスペンネームでも知られるフランスのマンガ家ジャン・ジロー(3/10)は、大友克洋宮崎駿など多くの日本人作家に影響を与え、日本マンガの国際化を語るうえでも欠かせない存在だ。晩年の手塚治虫も彼に対抗意識を抱いていたという。

 映画評論家の石上三登志(11/6)の『手塚治虫の奇妙な世界』(1977年)は、単なる作品論ではなく、キャラクターや様々な要素から手塚の作品世界を考察したサブカルチャー評論の先駆ともいえる。石上とは同世代にあたる三宅菊子(8/8)も1960年代よりライターとして活動を始め、1970年には女性誌『an-an』の創刊に参加、同誌の文体をつくったのは彼女ともいわれる。同じくライターで編集者の川勝正幸(1/31)は1982年に入社した広告代理店でのPR誌編集から、やがてコラム執筆やテレビ出演と活動範囲を広げ、音楽におけるリミックスにも通じる手法で映画パンフレットなどあらゆるものを編集してみせた。同日に亡くなったアメリカの美術家のマイク・ケリー(1/31)もまた、過去の有名なパフォーマンスの再現やミュージシャンとのコラボレーションなど、川勝との共通点が見出せる。

 前出の小沢昭一は1970年代、『an-an』を片手に若い女性たちが日本の観光地を旅してまわるのを横目に、各地で消えつつあった放浪芸を記録してまわり、それをレコードや著書を通じて紹介した。そのなかで芸能者としての自分自身の立ち位置をも見つめなおした。

 歌舞伎役者の中村勘三郎(18代目。12/5)は、「コクーン歌舞伎」や「平成中村座」、あるいは同世代の劇作家と組んだ新作歌舞伎など次々と新しいことに挑戦しつつも、常に伝統の重みを意識していた。定番の歌舞伎の演目についても、元の台本にあたることで現在の上演でのセリフや設定との違いを発見し、平成中村座の公演などではあえて原作通りに戻すという試みも行なっている。

 しかし小沢や勘三郎といい、俳優の地井武男(6/29)といい、病気療養のため休業してまもなくして急逝する芸能人の目立った一年だった。ミュージシャンの桑名正博(10/26)も、脳幹出血で倒れ意識不明のまま帰らぬ人となった。桑名のヒット曲「セクシャルバイオレットNo.1」(1979年)と同じく筒美京平作曲による「また逢う日まで」で1971年の日本レコード大賞に輝いた歌手の尾崎紀世彦(5/31)も、一時失踪が噂されつつ実際には1年前から入院していた。

 ちなみに「また逢う日まで」には、尾崎が歌う以前に、同じメロディながら歌詞もタイトルも歌い手も違う2つのバージョンが存在した。いわば3度目の正直で大ヒットとなったわけだ。歌も人も国も、何度でも再チャレンジできる世の中であれ。年も押し迫り、元首相が何年かぶりに返り咲いたのを見たばかりだけによけいそう思う……などと書いているうちに、そろそろスペースが尽きようとしている。二人でドアを閉めて、ではなく、一人で原稿を締めたところで、また逢う日まで。最後に、ここにあげたすべての人たちにあらためて哀悼の意を捧げます。
  (初出 「ビジスタニュース」2012年12月27日)

「物故者記事2008〜2012年」転載のお知らせ

 ウェブサイト「cakes」での拙連載「一故人」の今年最後の更新にて、この1年間に亡くなった著名人を振り返ってみた。

 同様の記事はこれまでにも、2008年から毎年、ソフトバンク クリエイティブメールマガジンビジスタニュース」にて掲載してきた。同メルマガは、のちにソフトバンク クリエイティブのサイト内へと移行し、過去の記事もあわせてそこで公開されていた。しかし、担当の編集者氏がほかの会社に移ったこともあり、現在では閲覧できなくなってしまっている。
 そこで、昨年より前の5年分は、こちらのブログのほうに転載することにした。きょうはまず2011年と2012年の2年分を転載し、以後の3年分は、大晦日までに1年ごとに過去へとさかのぼっていく形で順次公開していきたい。

東京はなぜ敗れたのか――総評・2016年オリンピック招致+ひとつの提案(2009年12月)

  • 「失政隠し」のイメージが最後までぬぐえず

 2009年10月2日、コペンハーゲンデンマーク)でのIOC総会にて行なわれた2016年夏季オリンピック最終選考において、東京はシカゴ(米国)に続いて落選、リオデジャネイロ(ブラジル)がマドリード(スペイン)との最終決選で勝利して開催地の座を獲得した。
 東京の落選直後には広島・長崎の両市が2020年五輪の共同開催を発表、さらには東京都の石原慎太郎知事も再度の立候補への意欲を語った(2009年11月9日)。
 2020年夏季オリンピック招致をめぐって早くも駆け引きが始まっているわけだが、いったい東京はなぜ負けたのか、その敗因分析もまだちゃんとなされていない段階でこのような動きが出てくるのはあまりにも気が早すぎやしないか。
 メディアでは敗因分析もいくつか見られる。だが、私が思うに、今回の東京の最大の敗因は東京都民から支持を得られなかったことであり、不支持だった人の多くは、都知事である石原慎太郎が提案したものだということに最後まで引っかかりを感じていたために支持できなかったのではなかろうか。
 ただ、オリンピック招致を誰が言い出したかなんて、あとになってみれば、誰も気にもとめないかもしれない。実際、1964年の東京オリンピックが歴代知事の誰によって提唱され、誰のもとで開催されたかなんてことを覚えている人は少ないはずだ(ちなみに東京オリンピック開催時の都知事東龍太郎は、スポーツ学者ということでシンボリックに知事に担ぎ上げられた人物であり、実質的な政務は副知事の鈴木俊一〈のち都知事〉があたったといわれている)。
 にもかかわらず、今回のオリンピック招致はあまりにも石原都知事と重ね合わせられすぎた。また時期も悪かった。
 すでに、石原の手で鳴り物入りで設立された新東京銀行が深刻な経営危機にあったほか、自称画家の四男を都の経費で外遊させ、その作品を数百万円で買い上げさせたという“公私混同”も発覚していた。2007年に辛くも知事三選を果たしたものの、2016年五輪への立候補表明を“失政隠し”と受け取る人も少なくなかったのではないか。そこからしてボタンのかけ違いだったような気がする。
 結果的に、2016年五輪開催を逃したことも石原の失政につけ加えられることになってしまった。今後、石原がいくら五輪への再挑戦を語っても、都民から多くの支持を集めることはますます望み薄だろう。もっとも、べつの誰かが同じことを言い出しても、よっぽどうまく提唱しないことにはかなり難しいこととは思うけれども……。いったい、オリンピック招致の機運を高めるにはどうしたらよいのだろうか。

  • 「成熟社会でのオリンピック招致」という矛盾

 今回のオリンピック招致はもともと、2016年を目標とした東京全体の都市計画を進めるなかで出てきたものだった。ようするに、スポーツ振興が先にありきというわけではなかったことになる。
 都市開発の起爆剤として企画されたビッグイベントといえば、開発中の臨海副都心での開催が予定されていた「世界都市博覧会」が思い浮かぶが、あれは開催中止を訴えて都知事選に勝利した青島幸男の登場で中止に追いこまれた。果たして、あのときの教訓が今回のオリンピック招致にどのくらい生かされたのかどうか。
 東京オリンピック招致では、成熟した都市や社会のなかでオリンピックを位置づけることが懸案となった。しかし、発展途上の未成熟な社会では、オリンピックや博覧会のようなイベントが国民の一大目標となることはありえるだろうが、成熟した社会では、それこそ価値観が多様化しており、自治体や国の呼びかけで人々が一致団結ということはまずないはずだ。そこに、今回のオリンピック招致の根本的な矛盾があったような気がしてならない。
 もはやこのようなトップダウン型のオリンピック招致というのはありえないのではないか(なお、トップダウン型という点では、東京と、広島・長崎の五輪招致とのあいだに違いはない)。ここは市民が自発的にオリンピック開催を望むのを待つしかないのではないか。いや、ただ待つのではなく、そう思わせる環境づくりというものが必要だろう。となると東京都も含めた自治体や国には、人々がスポーツに日常的に親しむような環境整備が、求められてくる。
 やや話ははずれるが、さる11月に行なわれた、鳩山内閣行政刷新会議の「事業仕分け」では、日本オリンピック委員会JOC)の選手強化事業費を含む文部科学省のスポーツ予算要求が縮減と判断された。これに対してオリンピックのメダリストたちなどからは反対の声があがったことは記憶に新しい。
 たしかに、オリンピック選手の強化にはかなりのお金が必要だということはわかる。だが、もっと長いスパンでとらえるなら、むしろ、一部の選手に予算を投下するよりは、地域スポーツの振興のために税金を投入したほうが、スポーツ人口の裾野を広げ、将来的に優秀な選手を多く輩出する可能性もより高くなるのではないか。
 もちろん、オリンピックでの選手の活躍が、若い世代にスポーツを始めようという動機づけとなることはあるだろう、だからこそ予算を削っては困るという意見もわからなくはない。だが、スポーツをしようと思い立っても、それをやる場がなければなにも始まらないではないか。
 そう考えていくと、東京都主催の東京マラソンは、スポーツ環境づくりのまさに第一歩といえるだろう。石原慎太郎の政策でほぼ唯一、無条件で評価に値するのは、この大会を実現したことではないか。今後、東京がふたたびオリンピック招致に挑戦するとして、まず、東京マラソンを一過性のブームに終わらせず、都民のあいだに定着していくことは欠かせまい。

 個人的に、スポーツ振興の策として一つだけ提案しておきたいことがある。それは、「秩父宮記念スポーツ博物館」のリニューアルだ。
 国立霞ヶ丘競技場内にあるこの博物館は、昭和天皇の弟で、登山などスポーツを趣味とした秩父宮雍仁を記念して設立された、日本で唯一のスポーツ専門の博物館である。
 だが、オリンピック関連の資料など、日本のスポーツの歴史において重要な品々の宝庫にもかかわらず、経営はなかなか厳しいようだ。
 それが証拠に、私が2000年のシドニー・オリンピック開催中の頃に出かけたら、1996年のアトランタ・オリンピックについて、「この大会で日本選手が10個以上の金メダルを獲得すれば、日本五輪史上総計で100個目に到達する」という説明板を見つけた。この時点ですでに終わっている大会についての説明なのに、なぜ未来形なのか(しかもアトランタでは10個も金メダルがとれなかっただけによけいに恥ずかしい)。こんな小さな説明板を変えられないほど、経営が逼迫しているのかと驚いたものである。
 さらに、それから何年かのちに、同博物館の図書館(博物館本体とは同じ競技場内ながらやや離れた場所にある)を利用したときには、職員の方から直接「予算がないので……」という言葉を聞いた。ちなみに、この博物館を運営しているのは、日本スポーツ振興センターという独立行政法人である。同センターは「スポーツ振興くじtoto)」の運営でも知られる。
 ともあれ、そんな経営状態にある博物館でも、展示のしかたしだいではもっと多くの集客を望めるのではないだろうか。
 というわけで、ここでは、どうすれば博物館に人を呼び込めるか、私が考えたアイデアをいくつか箇条書きしておく。

【1】スポーツ殿堂(すでに殿堂のある野球やサッカーは除く)を創設し、各種競技から貢献者を毎年選出して表彰する。
【2】野球場でいうネット裏のような観覧席を博物館内に設け、サッカーなどの試合開催時には臨場感あふれる観戦ができるようにする。
【3】展示内容も大幅に変更する。たとえば、1964年の東京オリンピックの記念館を博物館内に設置してみたらどうだろう。
 そこでは競技に関する展示は当然として、オリンピック開催によって東京の街は、日本の社会はいかに変わったかを説明する展示も行なう。たとえば、ジオラマや映像を使って、競技施設の建設や交通機関など周辺整備が進められる過程を表現してみたら面白いのではないか。
 さらに、これは【2】と連動した企画だが、1964年の東京オリンピックでの競技の模様を、最新鋭の映像技術を使って現在のスタジアムに再現することはできないか。たとえば、2016年のオリンピック開催地選考にあたり東京のオリンピックスタジアムの建設予定地を視察したIOC委員らは、東京都の用意したゴーグル型の映像装置を装着して、実施の風景にCGによるスタジアムを重ね合わせた映像を見ながら説明を受けたという。このゴーグル型の映像装置を、展示に導入してみてはどうだろう。
【4】博物館は単なる展示場にとどまらず、研究の拠点でもあることを考えれば、外部の各種データベースとも連動して、図書館機能の拡充をはかることも必要だろう。現在でも、スポーツ博物館の図書館はコンピュータ端末による検索システムも導入されないままでいる。この状態をどうにか打破できないものか。

 私からの提案は以上である。
 もちろん、どれもいますぐ実行に移せるというたぐいの企画ではないだろう。だが、たとえば博物館の企画として、国立競技場のスタジアムで来場者にくだんのゴーグル型の映像装置を試しに使ってもらいながら、東京オリンピックなどについてレクチャーを行なうといったことは、さほど予算がなくてもできるような気もする。
 スポーツに親しみを持ってもらうという意味では、この拙案はやや異色かもしれない。けれども、私のような文化系の人間にとっては、博物館や図書館といった施設を通してスポーツに歩み寄るのがいちばんの近道ということでこのような提案をさせていただいた。参考にしていただければ幸いである。
  (初出:『Re:Re:Re: 近藤正高雑文集』Vol.5、2009年12月)

 明日(9月8日)早朝にも、ブラジル・ブエノスアイレスでのIOC総会で2020年の夏季オリンピックの開催都市が決定する。せっかくなので、いまから4年前、2016年夏季五輪開催地の最終決戦での東京落選後に書いた拙稿(個人誌『Re:Re:Re:』にて発表)をここに再掲載しておく。
 ちなみに、東京の五輪誘致について、現在の私の立場は消極的支持といったところ。理由は、競技だけでない広義のスポーツ文化(そこには、下記の文中でとりあげたスポーツ博物館のような施設の運営・刷新も含まれる)に対し国家予算が投入されるには、日本の場合、オリンピックでも開催されないかぎりほぼ不可能だと思うから。もちろん、オリンピックが来る・来ないにかかわらず、スポーツに対し十分な公的支援が行なわれるのが理想ではあるのだが。

 気がつけば、2013年初めての更新となります。今年ももう半分すぎようとしているのにナンですが、あらためまして、あけましておめでとうございます。

 さて、昨年9月よりウェブサイト「cakes」にて、そのときどきで亡くなった著名人たちの足跡を振り返る「一故人」という連載を不定期ながら続けております。5月28日の更新分では、弁護士の中坊公平と俳優の夏八木勲をとりあげました。
 このエントリでは、夏八木勲について執筆するにあたり観た、彼の出演作である『人間の証明』などについての雑感を、ツイート風にメモしておきます。
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 映画『人間の証明』をDVDで観ていたら、ここ数年に亡くなった人がやたら出てきて驚いた。ざっと名前をあげるなら、夏八木勲坂口良子大滝秀治地井武男ジョー山中長門裕之今野雄二北林谷栄峰岸徹鈴木ヒロミツ……といった具合(さらにさかのぼれば、主演格の松田優作ハナ肇もすでに亡くなっているわけだが)。
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 最近、昔の映画を観るたびに、「この人、最近亡くなったよな」とか「わ、この場面に出てる人たち、全員もうこの世にいない!」などとつい“おくりびと目線”でチェックしてしまう私だが、その意味でこれほど目の離せない映画はなかった。おそらく同作ぐらい、出演者が短期間のうちにあいついで亡くなった映画もないかもしれない。それも公開当時における新人から中堅、すでに大御所だった人までまんべんなくそろっている。
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 ところで、『人間の証明』のプロデューサーである角川春樹は、『人間の証明』の企画当初、大島渚に監督をやってくれるよう依頼していたという。これに対し、大島は「この企画は自分には向いていないと思います」と断ったとか(樋口尚文『砂の器』と『日本沈没』 70年代日本の超大作映画』)

 角川春樹は当時世間を沸かせていた『愛のコリーダ』に一種のイベント性(事件性)に一種のイベント性を嗅ぎ取って、大島渚に声をかけたのだろうが、大島の場合は異色のイベント性(事件性と言うべきか)を発散する企画を好みながら、映画そのものを毅然とイベントという通俗さに譲り渡さない二面性がある。角川春樹は、いかんせんその大島の鉄壁の貞操観には無頓着であったのだろう(後略)
  (樋口、前掲書)

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 じつは、角川が大島に監督をオファーする伏線は、『愛のコリーダ』の日本公開直後に『朝日ジャーナル』に掲載された座談会にすでにうかがえる。
 このとき会したのは、大島と角川に、当時の『キネマ旬報』編集長の白井佳夫、さらに文化人類学者の山口昌男が加わるという、その人選がいかにも『朝ジャ』らしいのだが、それはともかく、座談会の終わりがけ、角川は、山口の「映画は基本的に見世物でなければならない」「見世物性というのは端的にいえばいかがわしさ、そのいかがわしさが大きな姿で現れたものがスキャンダルだ」との発言を受けて、次のように大島に話を持ちかけていた。

 美しいうそっぱちをまじめな顔でやって観客をだます、それがぼくのいうエンターテインメントなんだが、山口さんの意見に全く同感です。そういう意味で、これはまじめな提案なんだけど、大島さんどうですか、ぼくとスキャンダルやりませんか。スキャンダラスな監督とスキャンダラスなプロデューサーの組み合わせ、これはいいと思うんだが。
  (「社会観察座談会 「スキャンダラス」こそ映画のいのち」、『朝日ジャーナル』1976年11月19日号)

 このラブコールに対し、大島ははっきりと回答しないまま(けっして無視したわけではなく、このすぐあとに角川が振った話に話題が流れてしまったのだが)座談会は終わっている。
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 ただ、角川とのコラボレーションは実現しなかったとはいえ、角川映画から大島が影響を受けたり触発されなかったかというと、そうではないような気がする。たとえば、大島の『戦場のメリークリスマス』は、ビートたけし坂本龍一デビッド・ボウイといった豪華な出演陣といい、公開前後の監督が率先しての派手なPRといい、いかにも角川映画の祝祭的な部分を踏襲しているとはいえまいか。
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 それにしても、この時期の角川春樹は本当にカメオ出演が好きだったんだな。ウィキペディアでリストアップされているだけでも、こんなに出ているとは。

 夏八木勲主演の『白昼の死角』では、角川が社長役で、顧問弁護士役の鬼頭史郎ロッキード事件でのいわゆる「ニセ電話事件」で知られる元判事)に相談する場面があったが、ここは笑うところだよね?
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 さらに余談。いま、『人間の証明』をリメイクするとしたら、岡田茉莉子は、息子の岩城滉一をニューヨークではなく宇宙に高跳びさせるんでしょうね?


 【関連記事】

「『国のかたち』を問うた2012年物故者たち」補遺

 ソフトバンク クリエイティブの「ビジスタニュース」で毎年末、その一年間に亡くなった著名人を回顧する記事を担当するようになって早5年目を迎えます。昨年以前、過去4年分の原稿は下記のとおり。

 そして今年は「『国のかたち』を問うた2012年物故者たち」と題し、去る27日深夜に掲載されました。

 このエントリでは、本編ではスペースの都合や構成上とりあげられなかった物故者、エピソードを外伝的に紹介するとともに、参考文献などもあげておきたいと思います。
 まず、基本資料としては毎年のように下記のものを参照しています。

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 2011年、中国から東京の上野動物園に新たなパンダ2頭が貸し出された。1年後、その子供が生まれたものの、生後わずか6日目で肺炎によいり死亡、その繁殖、飼育のむずかしさをあらためて感じさせた。
 40年前の1972年、日中国交正常化を記念して初めてパンダが来日した際、ほとんど情報がないなかで試行錯誤しながらその飼育にあたったのが、当時上野動物園の飼育課長でのちに多摩動物公園の園長などを務めた中川志郎(7/16。以下、カッコ内の日付は故人の命日を示す)である。

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 原田正純(6/11)は1960年以来、水俣病の調査研究、患者の支援を続け、近年はこの公害が突きつけた問題を普遍化しようと「水俣学」を提唱した。自ら白血病と闘いながら、亡くなる直前まで患者たちの支援に奔走する姿は、没後放映されたNHK教育のドキュメンタリーでも紹介されていた。

 水俣病の未認定患者の問題の背景には、水俣病に対する根深い差別や偏見がある。一方、これは感染症ではあるが、ハンセン病に対しても長らく偏見がつきまとった。ハンセン病訴訟全国原告団協議会の会長を務めた曽我野一美(11/23)は、粘り強い運動により、差別を生んだ原因である隔離政策を改めさせたのち、元患者らに対する国の責任を追及した。
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 伊藤エミ(6/15)・ユミによる双子の姉妹デュオ「ザ・ピーナッツ」の出演した映画『モスラ』(1961年)については、小野俊太郎モスラの精神史』講談社現代新書、2007年)を参照した。
 ちなみに『モスラ』の原作小説は、中村真一郎福永武彦堀田善衛という戦後派文学の作家たちによって手がけられた。このうち堀田の芥川賞受賞作『広場の孤独』は、受賞の翌年の1953年、津島恵子(8/1)主演により映画化された。本編でも書いたように、同作は俳優の小沢昭一(12/10)の映画デビュー作でもある。
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 吉本隆明(3/16)については、その著書である『共同幻想論』(角川ソフィア文庫)や、同書の刊行(1968年)前後に吉本が行なった講演などを収録した『吉本隆明全著作集』第14巻』(勁草書房、1972年)のほか、「共同幻想再論」という一章を設けた武田徹の『偽満州国論』(中公文庫、2005年)を参照した。とりわけ『偽満州国論』は、吉本が「共同幻想」や「逆立」といった独特の用語を、明確に定義することなく使用していたことに着目し、そこに宮沢賢治の影響を見てとるなど興味深い指摘が多い。
 吉本隆明に関しては、亡くなってまもなく、エキレビでもその仕事を振り返っているので、ご一読いただければ幸いである。

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 上山春平(8/3)については主に、『上山春平著作集 』第1巻法蔵館、1996年)所収の「論理から国家へ 一九八四年の退官記念講演」を参照した。京大退官にあたり、論理学から国家論へと発展した自らの研究の足跡を語ったものである。
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 パティ・ロイ・ベーツ(10/9)が“建国”した「シーランド公国」については、『国マニア 世界の珍国、奇妙な地域へ!』(ちくま文庫、2010年)にくわしい。同書は、わたしがエキレビに寄せた最初の記事でも紹介している。

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 ノロドム・シアヌーク(10/15)の記述は、「cakes」での拙連載「ノロドム・シアヌーク――「気まぐれ殿下」がカンボジアにもたらしたもの」でも引用した冨山泰『カンボジア戦記 民族和解への道』中公新書、1992年)を主に参照した。
 なお上記「一故人」での参考文献のひとつ「シハヌーク 最長不倒の人」(別冊宝島EX『英雄たちのアジア』JICC出版局、1993年)の執筆者で、日本におけるベトナム史研究の第一人者であった桜井由躬雄も、今年12月17日に亡くなっている。
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 寛仁親王(6/6)は雑誌への寄稿も多かったが、拙稿では「美しい日本 「開かれた皇室」より「静かなる皇室」」(『文藝春秋』2003年9月号)、また工藤美代子による『Voice』誌でのインタビュー(2008年、連続9回)を参照にした。
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 井上ひさしの『吉里吉里人』や北杜夫の『楡家の人びと』といった各作家の代表作は、彼らの亡くなったあとその文庫版が帯を変えて増刷されたが、同じ新潮文庫に収録されながら丸谷才一(10/13)の長編『裏声で歌へ君が代』(新潮社、1982年/新潮文庫、1990年)がいまだに版元品切れとは、どういうことだろう。
 邱永漢(5/16)の直木賞受賞作『香港』をはじめとする初期短編は『邱永漢 短篇小説傑作選―見えない国境線』(新潮社、1994年)という一冊にまとめられている。台湾に生まれ日本で学び、その後イギリス領だった香港に一時亡命するという波瀾に富んだその青年時代については、『中央公論』1993年6月号〜10月号で連載された「わが青春の台湾」に詳述されている。
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 本文でとりあげたテオ・アンゲロプロス(1/24)の代表作のひとつ『ユリシーズの瞳』は、『テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II』に収録されている。
 若松孝二(10/17)の近年の2作も以下のとおりDVD化されている。

 最新作『千年の愉楽』は2012年秋の公開予定だったのが2013年春に延期された矢先、監督の訃報があった。中上健次の同名小説を原作としたこの映画は、来年1月6日にロケ地となった三重県で先行上映されたのち、全国で公開予定だという。詳細はオフィシャルサイトを参照。
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 石岡瑛子(1/21)が美術を担当した映画『Mishima: A Life in Four Chapters』については、エキレビの拙記事でとりあげたことがある。

 この映画に端を発する、石岡の国際的な活動はその著書『私 デザイン』(講談社、2005年)にくわしい。
 また、彼女の存在を一躍知らしめたパルコでの仕事は、『パルコのアド・ワーク―1969〜1979』(パルコ出版、1979年)にまとめられている。パルコの広告には、ドミニク・サンダフェイ・ダナウェイなど海外の有名な女優があいついで出演して話題になった。このうちドミニク・サンダ出演にあたっては、そのセッティングに作家の虫明亜呂無がかかわっているという(虫明のエッセイ集『女の足指と電話機 回想の女優たち』清流出版、2009年参照)。虫明はその連載小説の挿絵を依頼するなど、早くから石岡と親交があった。
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 森稔(3/8)については、『週刊ポスト』2012年4月13日号の追悼記事「ヒルズ神話 膨張する野望」では、本文でも少し触れた弟の森章(森トラスト社長)との関係など生臭い話も含め、その功罪が言及されている。森は生前、松島茂・竹中治堅編『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策(歴史編)3 日本経済の記録 時代証言集(オーラル・ヒストリー)』でも、自身の足跡を語っている。
 森が六本木ヒルズの森タワーに設けた森美術館には、現代美術キュレーターの東谷隆司(10/16)も一時期所属し、その開館直後に開催された「六本木クロッシング2004」などに参画した。日本における同時代の美術の紹介者としては、東京・青山のワタリウム美術館(1990年開館)の和多利志津子(12/1)の訃報も記憶に新しい。

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 日本初の超高層ビル霞が関ビル」(1968年)を設計した台湾出身の建築家の郭茂林(4/7)は、その後も、東京・浜松町の世界貿易センタービル(今年取り壊しが決まった)や新宿副都心計画、サンシャイン60など多くの超高層ビルの計画に携わり、近年は台湾の台北市の都市開発も手がけた。2012年10月の東京国際映画祭では、彼のドキュメンタリー映画空を拓く〜建築家・郭茂林という男〜』が上映されている。
 戦後まもなく、東大工学部建築学科の教授で建築家の吉武泰水のもとで、公営住宅の2DKの基本モデルの設計も手がけている。
 同じく建築家の菊竹清訓(2011年12/26)が参加したメタボリズムグループについて、その回顧展についてはエキレビでも昨年とりあげた。

 日本の城郭や江戸の都市計画などを建築史のなかで位置づけた内藤昌(10/23)も今年亡くなっている。『江戸と江戸城』(鹿島出版会、1966年)はその代表的著作。
 本文でとりあげた、ブラジルの首都ブラジリア建設に関するオスカー・ニーマイヤー(12/5)の証言は、『近代建築の証言』(TOTO出版、2001年)を参照。
 ちなみにブラジリアは、1987年にユネスコ世界文化遺産に選ばれている。第二次大戦後につくられた都市・建築としては異例の早さでの認定である(これ以外に現代建築で世界遺産というと、シドニーのオペラハウスが選ばれているぐらいではないか)。
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 ニーマイヤーは2004年に高松宮記念世界文化賞を受賞している。このほか、スペインの美術家アントニ・タピエス(2/6。1990年受賞)、イタリアの建築家・デザイナーのガエ・アウレンティ(10/31。1991年受賞)、ドイツの作曲家ハンス・ウェルナー・ヘンツェ(10/27。2000年受賞)、メキシコの建築家リカルド・レゴレッタ(2011年12/30。同年受賞)、それからインドのシタール奏者で作曲家のラビ・シャンカル(12/11。1997年受賞)と、この一年のあいだには世界文化賞受賞者の物故があいついだ。
 シャンカルは、ビートルズジョージ・ハリスンシタールを手ほどきしたことでも知られる。このとき、ジョージのインド来訪が知られるや、大勢の若いファンが彼の泊まるホテルの前に群がり、またシャンカルの家でも電話が鳴りっぱなしになったという。

 12歳から17歳の少女がほとんどのこの若者たちの気狂いじみたバカ騒ぎを見たとき、私は目を疑った。それがもしロンドンや東京、またニューヨークだったら信じられただろうけれどインドでは! そしてボンベイやデリーといった大都会での若者は、もはや世界中の若者たちの何の隔たりもないことに気がついた。
  ――シャンカル『ラビ・シャンカル/わが人生、わが音楽』(小泉文夫訳、音楽之友社、1972年)

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 同じく本文中でとりあげた写真家・石元泰博(2/6)の発言は、日経デザイン編『デザイン“遣唐使”のころ 昭和のデザイン〈パイオニア編〉』(日経BP社、1995年)から引用した。
 同書では、2011年12月に亡くなった工業デザイナーの柳宗理、2010年に亡くなった舞踏家の大野一雄、また前衛生け花の中川幸夫(3/30)などもとりあげられている。中川は同じ前衛生け花でも、「草月流」の創始者勅使河原蒼風のように流派をつくることはなかった。池坊門下を脱退してからはどこの流派にも属さず、腐らせたカーネーションを自作のガラス器に詰めた「花坊主」(1973年)など型破りな作風で知られた。中川と同じ香川県出身の脚本家・作家の早坂暁は、勅使河原と中川をモデルに実名小説『華日記』(1989年)を著している。
 石元と同じくアメリカ移民2世としては、やはりアメリカの上院議員として長らく活躍したダニエル・イノウエ(12/17)もあげておきたい。
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 東條輝雄(11/9)については、前間孝則YS‐11――国産旅客機を創った男たち講談社、1994年)を参照した。
 富士通の元社長・山本卓真(1/17)に関しては、主に田原総一朗の『日本コンピュータの黎明 富士通・池田敏雄の生と死』(文春文庫、1996年)に依った。同書は、山本の社長時代、1980年代に米IBM社とのあいだに持ち上がった、大型汎用コンピュータの互換性をめぐる知的財産権紛争(のち、富士通がライセンス料を支払うも互換性は認めさせる)を足がかりに、富士通にあって国産コンピュータの開発を主導した天才エンジニア池田敏雄の生涯を追ったノンフィクションである。
 日立製作所フェローで物理学者の外村彰(5/2)も、企業内技術者、そして研究者として多くの業績を残した。自ら開発に携わった電子顕微鏡を用いて、物理学における画期的な発見を次々と成し遂げている。なお日立製作所日立ハイテクノロジーズは2012年1月、「電界放出型電子顕微鏡の実用化」の功績によりIEEEアメリカ電気電子学会)からマイルストーン賞を授与されている。
 星晃(12/8)は、旧国鉄にあって、車両製作に工業デザインの概念を導入した先駆者であった。ブルートレインや日本初の電車特急「こだま」、そして新幹線の0系電車と鉄道史に残る数々の名車をデザインしたほか、東海道本線・準急の車内での寿司屋の営業を提案するなどアイデアマンでもあった。

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 元宇宙飛行士のニール・アームストロング(8/25)については、こちらの拙記事およびブログエントリを参照。

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レイ・ブラッドベリ(6/5)のくだりでの、その代表作『華氏451度』(1953年)をめぐるエピソードは、ハヤカワ文庫NV版巻末の、福島正実の解説「ブラッドベリ・ノート」に引用された、以下のようなブラッドベリの文章を参照した。

 『華氏四五一度』を書くとき、私は、四、五世紀のちにやってくるかもしれない世界を書いていたつもりだった。だがほんの二、三週間前のある夜、私は、ビヴァリー・ヒルズで、一組の夫婦連れが犬を散歩させているのとすれちがった。私は呆気にとられて彼らの姿を見まもった。細君の方は、片手に煙草の箱ほどの小型ラジオを、アンテナをぶるぶるふるわせながら持っていた。ラジオからはほそいコードが出ていて、彼女の右の耳の中の優雅なレシーバーにつながっていた。彼女は、夫も、犬も完全に忘れて、安っぽい流行歌にうっとりと聞き惚れていた。カーブに来ると、いないも同然の夫に手を引かれて、夢遊病者よろしく、あぶなっかしく歩いている。これは小説ではない。われわれの生きているこの社会に、新らしく生まれ出た現象なのだ。

 なお、ブラッドベリが自著の電子書籍化のオファーを拒否したという話は、一昨年の90歳の誕生パーティーの記事に出てくる。

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 吉田秀和(5/22)のエッセイ「薄気味の悪い話」(1974年。『吉田秀和全集』第10巻白水社、1975年に所収)を、私は片山杜秀が『片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】』(アルテスパブリッシング、2012年)での吉田の追悼文(もともとはラジオ番組でのトーク)で紹介しているのを読んで初めて知った。片山は、このエッセイについて現在のグーグル的なものを予見したものとしてとりあげている。
 片山杜秀は、このほか『アルテス』Vol.3や、『吉田秀和――音楽を心の友と』音楽之友社、2012年)に、吉田の追悼記事を寄稿している。後者の巻頭には、丸谷才一(10/13)による「追悼の辞」も再録されている。丸谷もそれから5カ月後に世を去った。
 戦後における吉田秀和の活動、さらに別宮貞雄(1/12)や林光(1/5)といった作曲家たちについては以下の本も参照した。

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 100歳の誕生日を迎えた直後に亡くなった新藤兼人(5/29)の監督作品は、以下の作品を含めほとんどがDVD化されている。

 ぼくとしては、『ボク東綺譚』(1992年。ボクの字はさんずいに墨)も忘れがたい。新藤作品の常連で、その夫人だった女優の乙羽信子は、この作品では眼帯をした女郎屋の女将の役で出演している。
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 春日野八千代(8/29)については、連載「一故人」の「春日野八千代――宝塚男役という「虚構」を生きた80年」で、すでに宝塚歌劇団の歴史とあわせてくわしく書いている。
 諏訪根自子(3/6)は、里見トン(トンは弓に亨)の小説『荊棘の冠』(1934年)のモデルにもなった。1930年代後半から40年代初めにかけては、諏訪のほかにも、巌本メリー・エステル(のち真理)、さらに岩淵龍太郎江藤俊哉辻久子とローティーンのバイオリニストが立て続けにデビューした。そこには、諏訪と巌本を育てた亡命ロシア人・小野アンナなどヨーロッパ出身の音楽教育家の存在も大きくあった。
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 森光子(11/10)については、本文でも引用した志賀信夫の『テレビを創った人びと』(日刊工業新聞社、1979年)をとくに参照した。
 森と山田五十鈴(7/9)という対照的な女優については、ルポライター竹中労も両者を比較して次のようなことを書いている。

 映画界でのラジカルな芸と恋の旅路から、舞台への転身をとげてわずか数年のあいだに、山田五十鈴の芸は大きな変貌をみせた。それは一口でいうと、“女形”への接近である。女形とは男の目を通してみた女、つまり現実の女ではなくて、女の理想像である。森光子が舞台で演ずる“おんな”は、いじらしくせつなく、甘美である。アチャラカをひとつやっても可愛らしく、憎さというものがない。
  ――竹中労芸能人別帳』(ちくま文庫、2001年)

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 松下正治(7/16)と山下俊彦(2/28)の松下電器(現パナソニック)の二代の社長については、『復讐する神話 松下幸之助の昭和史』(文春文庫、1992年)でくわしくとりあげられている。それを読むと、社長の在任期間でいえば正治が16年、山下が9年と、正治のほうが長いものの、「山下革命」とも呼ばれたドラスティックな経営改革を断行した山下のほうがより重要な役割を果たしたことがわかる。
 ちなみに山下俊彦が亡くなった同じ2月28日には、かつての松下電器提供によるテレビのクイズ番組『ズバリ!当てましょう』の初代司会者であり、松下のCMにも多数出演して、同社の旧ブランド名から「ナショナルの顔」とも呼ばれたタレントの泉大助も亡くなっている。
 パナソニックの経営不振が取りざたされた2012年に、元社長の2人をはじめ、ゆかりの深い人物があいついで亡くなったのは象徴的といえるかもしれない。
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 住友銀行(現・三井住友銀行)出身の元アサヒビール社長の樋口廣太郎(9/16)については、下記の拙記事でくわしく書いている。

 りそなホールディングス会長として同社の再建にあたった細谷英二(11/4)については、下記のようなウェブ上の記事を参照した。

 りそなは、主に中小企業や個人を相手とするリテールバンクへ転換するにあたって、必然的に大企業を切り捨てざるをえなかった。現在不振が伝えられる三洋電機やシャープといった企業は、かつてりそなと関係が深かったが、先述のような事情からりそなからは援助を得ることができなかった……との指摘もある(上記のうち「ビジネスジャーナル」の記事を参照)。
 細谷はJR東日本時代にエキナカビジネスを成功させ、東京駅の再開発計画を軌道に乗せたのち、りそなに転じている。生前のインタビュー記事によれば、グループ会社の東日本キヨスク(現JR東日本リテールネット)の社長というポストが用意されていたにもかかわらず、リスクを冒しての転職であった。
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 本文において、1989年から1994年にかけて日銀総裁を務めた三重野康(4/15)が、就任当初に行なった3度の公定歩合引き上げについて、(国民から期待されたような)地価抑制を目的としたものではないと発言したことに触れた。このくだりでは、小峰隆夫編『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策(歴史編)1 日本経済の記録 第2次石油危機への対応からバブル崩壊まで(1970年代〜1996年)』のうち第3部・第3章(リンク先、PDF)の「平成の鬼平伝説はどこから来たのか?」と題する一節(P.453〜455)を参照している。
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 浜田幸一(8/5)については、「一故人」の第1回となった「浜田幸一――不器用な暴れん坊のメディア遊泳術」でくわしく書いた。
 日本政治の関係者としては、1946年に婦人参政権が認められたのち初めて実施された総選挙で当選した女性代議士のひとり山口シヅエ(4/3)、平和や女性の権利などをめぐる社会活動も積極的に行なった評論家・吉武輝子(4/17)、また歴代首相夫人の三木睦子(7/31)、中曾根蔦子(11/7)といった人たちがあいついで亡くなっている。このうち三木と中曾根については、下記の拙稿でもとりあげている。

 このほか、泡沫候補とみなされながらも国政選挙や都知事選に何度も立候補し、同性愛者などマイノリティの解放を訴え続けた東郷健(4/1)の存在も忘れがたい。
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 米長邦雄(12/18)に関しては、2012年1月のコンピュータソフト「ボンクラーズ」との対局直後に『週刊文春』に掲載された阿川佐和子との対談のほか、『中央公論』に掲載された梅田望夫との対談も参照した。

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 松平康隆(2011年12/31)がバレーボールのファン層拡大のために行なったメディア戦略については、下記のフジテレビのゼネラルプロデューサーによる講演でも触れられている。

 2012年はオリンピックイヤーだった。ノルウェーの競泳選手アレクサンドル・ダーレ・オーエン(4/30)は、北島康介のライバルと目され、ロンドン五輪でも活躍が期待されていたが、直前に26歳の若さで急逝した。
 桜井孝雄(1/10)は、1964年の東京オリンピックでボクシング・バンタム級で同競技で日本初の金メダリストとなる。ロンドン五輪では、村田諒太がミドル75kg級で、じつにボクシングでは48年ぶりの金メダルを日本にもたらした。
 プロ野球界の物故者としては榎本喜八(3/14)の名前をあげておきたい。1955年に毎日オリオンズ(のちの大毎〜ロッテオリオンズ、現・千葉ロッテマリーンズ)に入団、一塁手で5番打者に抜擢され、その年の新人王に輝いた。その後「大毎ミサイル打線」の中核を担い、ヒットを量産、「安打製造機」の異名をとった(首位打者には2度なっている)。1968年の通算2000本安打達成は、川上哲治山内一弘に次ぎ日本プロ野球史上じつに3人目の快挙であった。安打数は1972年の引退までに2314本を数え、生涯打率は2割9分8厘。
 現役後半には奇行が目立ったとはいえ、独特の打撃理論を持ち、引退後も長らく現役復帰と通算打率3割をめざしてトレーニングを欠かさなかったという。文句なしの記録を残し、そのパーソナリティーからもファンに強烈な印象を与えた彼が、亡くなるまで野球殿堂に選ばれなかったという事実は、その選考方法に問題があるのではないかとさえ思わせる。
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 2012年12月の総選挙では、自民党による改憲案も話題にのぼった。現行の日本国憲法が戦後の占領軍によって押しつけたものだと言うのはたやすい。しかし法学者で最高裁判事も務めた團藤重光(6/25)は、現行憲法について《第二次大戦、ヨーロッパ戦争の経験をふまえて米国に亡命したユダヤ人など、いろいろ大変な経験をした、優れた人が知恵を集めて、ずいぶん立派なものを作った。決して米国の短期的な利害、ご都合だけで作ったというふうには(中略)読めない》と語っている(伊東乾との共著『反骨のコツ朝日新書、2007年)。
 團藤自身、終戦直後、ドイツ生まれのユダヤ人(のちアメリカに亡命、GHQに配属)の法律家アルフレッド・C・オプラーの指導のもと、新憲法にもとづき新たな刑事訴訟法を起草した経験を持つ。團藤はオプラーからプロフェッサーとして信頼され、現行犯の規定についてまるまる任されたりしながら討議を繰り返した末に新たな刑訴法をつくりあげたという。
 政治学者で、防衛大学校校長も務めた猪木正道(11/5)も、「平和憲法の理念を守りつつ、自国の防衛軍を明確に保持できるようにするべきだ」と改憲論を打ち出す一方で(「朝日新聞デジタル」2012年11月7日)、現行憲法でも自衛力を保持することは認められていると強調、《現行憲法が押しつけ憲法であるとか、占領下に制定されたとかを指摘して“憂国者”ぶりを競う傾向が見られるけれども、そういう間違った“憂国”の狂気こそ、全世界を相手にする無謀な戦争へと、わが国を暴走させた危険な病症であった》とも書いている(「現行防衛体制の評価――第1章 憲法と自衛力の限界」1977年初出、『猪木正道著作集』第5巻、力富書房、1985年)。
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 日本映画における録音技師の第一人者、橋本文雄(11/2)は、半世紀にわたる自身の仕事について『ええ音やないか 橋本文雄・録音技師一代』(リトルモア、1996年)で、評論家の上野昂志相手に語っている。彼が手がけたのは、映画黄金期の名作から、日活ロマンポルノ、さらに1980年代以降の新人監督(森田芳光和田誠など)の作品にいたるまで、じつに多岐におよぶ。
 橋本のかかわった『幕末太陽傳』(1957年)は落語のさまざまな噺を下敷きにしている。劇中、「品川心中」の貸本屋の金造を演じた小沢昭一(前出)は、俳優になる前は落語家志望で、早稲田大学在学中には落語研究を創設している。
 同作をはじめ川島雄三監督作品の常連であった小沢に対し、作家の藤本義一(10/30)は一時期、川島の弟子として映画脚本のいろはを叩きこまれた経験を持つ。直木賞候補となった短編「生きいそぎの記」(1971年)は、小説ではあるが、川島が実名で登場し、当時の藤本との関係がうかがえる。

 中村勘三郎(18代目。12/5)の最後の主演映画『やじきた道中 てれすこ』(2007年)も、落語を下敷きにしたものであり、『幕末太陽傳』を意識したのではないかと思わせる部分もある。
 本文中とりあげた、歌舞伎の定番の演目を、現在のセリフや設定からあえて原作に忠実なものへと変更したという勘三郎の発言は、『東京人』2002年7月号での丸谷才一(前出)との対談に出てくる。

勘九郎[当時] (中略)平成中村座の『法界坊』にしても、今はみんな永楽屋の女房になってる役が、原作では男親なんですよ。娘のお組の前で法界坊がその親爺を惨殺して、手と足を切って「徳利爺」……みなさんとっくりとごらんください、って。だからそのくだらなさ、残酷さ。でもそんなこと誰が考えたんだ、って批評が出たんですよ。誰って、原作だよ、って。春陽堂の古い文献なんですけどね。そういう批評書かれるとカーッとくるんです。
丸谷 そういう事実関係の間違った批評については淡々と冷静に反論すればいい。
勘九郎 淡々とはできないんですよ、ぼく。
丸谷 じゃあぼくが代筆してあげる。
勘九郎 ありがたいね(笑)。

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 本文でとりあげた桑名正博(10/26)や尾崎紀世彦(5/31)以外にも、元フォーリーブス北公次(2/22)、海外でもホイットニー・ヒューストン(2/11)、ドナ・サマー(5/17)、元モンキーズデイビー・ジョーンズ(2/29)と、2012年は歌手たちの訃報もあいついだ。長良事務所(現・長良プロダクション)を設立し山川豊氷川きよしなどを育てた長良じゅん(5/2)、新栄プロダクションを設立し村田英雄をはじめ北島三郎五月みどり藤圭子などを世に送り出した西川幸男(12/26)も亡くなっている。
 「ぴんからトリオ」から「ぴんから兄弟」、さらにソロ歌手として活躍した宮史郎(11/19)は、もともと漫談グループ「スパロー・ボーイズ」として出発した。彼のデビューした1960年代には演芸ブームが巻き起こり、その火元のひとつNET(現テレビ朝日)の『大正テレビ寄席』からは、内藤陳(2011年12/28)らの「トリオ・ザ・パンチ」、小野ヤスシ(6/28)らの「ドンキー・カルテット」など多くのグループ、芸人が輩出された。同時期のテレビの笑いを語るうえでは、桜井センリ(11/10)が参加したクレイジー・キャッツ新倉イワオ(5/9)が長年構成作家を務めた日本テレビの『笑点』も忘れるわけにはいかない。
 もっともテレビの世界でお笑いが主流になるには1980年代まで待たねばならなかった。その急先鋒となったフジテレビの『オレたちひょうきん族』には、大平サブロー・シロー(2/9)、小林すすむ(5/16)が所属した「ヒップアップ」といったお笑いタレントのほか、俳優の安岡力也(4/8)も出演して「ホタテマン」で新境地を拓いた。
 これ以外にも流通ジャーナリストの金子哲雄(10/2)、キャスターの山口美江(3/7)、ニッポン放送アナウンサーの塚越孝(6/26)とテレビ、ラジオで活躍した人たちの早世も目立つ一年であった。

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 本文の脱稿後も、特撮人形劇『サンダーバード』などを手がけたイギリスの映像プロデューサー、ジェリー・アンダーソン(12/26)、それから1991年の湾岸戦争多国籍軍を率いたアメリカの元中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフ(12/27)と訃報があいついだ。シュワルツコフの死去は、湾岸戦争時の米大統領ジョージ・H・W・ブッシュパパ・ブッシュ)が入院先の病院で集中治療室へ移された直後のことであった(その後、容態は回復し一般病棟に移ったという)。
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 ずいぶん長い補遺になってしまった。声優・谷口節(12/27)の缶コーヒーのCMでの名台詞を借りるなら、ここまで名前をあげた「ろくでもない、すばらしき世界」を生き、またつくりあげたすべての人々にあらためて哀悼の意を捧げつつ、本稿を締めたい。