『タモリと戦後ニッポン』が発売されました

 ブログでの告知がすっかり遅くなってしまいましたが……自著としては5年ぶり3冊目となる『タモリと戦後ニッポン』が本日、講談社現代新書より発売されました。本書はケイクスで今年4月1日まで1年間連載してきた「タモリの地図――森田一義と歩く戦後史」を、新たな取材や資料を踏まえて大幅に加筆修正したものです。

 昨年エキレビ!に掲載されたこの記事をお読みいただければわかるとおり、私にとって講談社現代新書は中学時代からあこがれのレーベルでした。それだけに、現代新書から自著を出せることにうれしさと感慨に加え、かなりの緊張も抱いているのですが、ここは読者の方々や評者諸氏からの評価を謙虚に待ちたいと思います。

 すでに発売とあわせてライターの井上マサキさんにエキレビ!で最速レビューを書いていただいています。

 連載媒体であるケイクスにも特別編として「タモリと政治」をテーマに2回にわたり寄稿しました。

2014年

 <2013年2015年>

2013年

 <2012年2014年>

2008年物故者たちをめぐるストーリー

 今回、今年一年に亡くなった人たちを振り返る、というテーマをいただいた。とはいえ、ただ名前を時系列に列挙するだけでは味気ない。そこで、ここは物故者たちになにかしらの関連性を見出しながら、語ってみようと思う。あくまでも僕の勝手な人選なので漏れも出てくるだろうが、その点はあらかじめご容赦願いたい。

 北京五輪が盛大に行なわれるさなか、中国元首相の華国鋒(8/20。以下、日付は故人の命日を示す)が亡くなった。その華国鋒から実権を奪った蠟小平が改革開放路線を始めたのはちょうど30年前のこと。この政策が本格化するとともに、中国国内では西側諸国の流行歌が紹介されるようになり、なかでも遠藤実(12/6)が作曲した「北国の春」は歌詞を翻訳されて人びとに愛唱されたという。

 北京五輪といえば、野球の日本代表チームで投手コーチを元広島東洋カープ大野豊が務めた。その大野をはじめ衣笠祥雄高橋慶彦達川光男などカープ黄金期の名選手を発掘し、「スカウトの神様」と呼ばれたのが木庭教(5/23)だ。今年はまた、1975年に開幕から3週間で監督を辞任しつつも、チームの帽子の色を現在の赤に変更し、同年のカープ初優勝の基礎をつくったとも評されるジョー・ルーツが亡くなっている(10/20)。

 カープが初優勝を達成した頃、同球団の親会社である東洋工業(現・マツダ)は深刻な経営危機を迎えていた。その再建のため住友銀行から出向し副社長に就いたのが村井勉(10/30)だった。彼は東洋工業を立て直すと、さらにアサヒビール社長として同社の再建に尽力、1987年には新たに誕生したJR西日本の初代会長に就任する。

 JR西日本を含むJRグループ7社は国鉄の分割民営化によって発足したわけだが、杉浦喬也(1/16)は最後の国鉄総裁としてその幕引きを果たした。一方、国鉄内部で民営化を推進した一人である山之内秀一郎(8/8)はJR東日本の初代副社長に就任、のちには会長も務めた。山之内はまた、『新幹線がなかったら』など一般向けの鉄道本も著している。『私鉄探検』の著者である僕としては、山之内以外にも、鉄道史研究の第一人者として多くの著作を残した原田勝正(4/7)と中川浩一(8/19)の名も忘れがたい。

 ところで、今年の物故者を振り返る上で特筆すべきは、放送史に大きな業績を残した人が目立つことである。

 たとえば、元NHKアナウンサーの藤倉修一(1/11)は、敗戦直後に始まった「街頭録音」の専属インタビュアーのほか、ラジオの人気番組『二十の扉』や最初期の紅白歌合戦などで司会を務めた。あるいは宇井昇(3/18)は1951年、日本初の民放・中部日本放送(名古屋)の開局第一声を担当したアナウンサーである。同じ年にはNHKラジオ体操の第一体操が服部正(8/2)の作曲により装いも新たに再開された。やがて放送の主役はラジオからテレビに移る。1958年には川内康範(4/6)原作の『月光仮面』が現在のTBSで放映開始され、テレビが生んだ最初のヒーローとなった。

 テレビ番組制作の現場で活躍したなかでは、紅白歌合戦や『夜のヒットスタジオ』などの人気番組を手がけた放送作家の塚田茂(5/13。彼については亡くなる直前に当メルマガに寄稿した「放送作家のあがり方」でも触れた)、TBSの同僚らとともに番組制作会社の草分けであるテレビマンユニオンを設立した村木良彦(1/21)、フジテレビで『ひらけ!ポンキッキ』を手がけ、のちに日本テレワーク設立に参加した野田昌宏(6/6)、NHKディレクターとして大河ドラマや大型ドキュメンタリーの原型をつくった吉田直哉(9/30)、それから朝日新聞社を退職後ニュースキャスターに転身し、テレビを代表するジャーナリストとなった筑紫哲也(11/7)といった人たちが鬼籍に入っている。テレビ業界ではまた、フリーアナウンサー川田亜子が29歳で自殺するという痛ましい事件もあった(5/25)。

 上記のうち吉田が1965年に演出した大河ドラマ太閤記』では、まだ新国劇若手俳優だった緒形拳(10/5)が秀吉役に抜擢され、出世作となった。また、野田の手がけた『ポンキッキ』は、アメリカの子供番組『セサミ・ストリート』の日本版として始まったものだが、ガチャピン(のモデルは野田自身……というのはテレビ番組『トリビアの泉』でも紹介されていた)とムックというオリジナルキャラや、大ヒット曲「およげ!たいやきくん」が生まれるなど、本家とはまた違った道を歩んだ。このあたり、評論家の加藤周一(12/5)が提言した「日本文化の雑種性」の表れともいえるかもしれない。

 テレビで活躍した人物としてはもう一人、『ポンキッキ』と並び子供たちに親しまれたNHKの『みんなのうた』で、数々の名作を手がけた作曲家の福田和禾子(10/5)もここでぜひあげておきたい。

 さて、村木良彦や吉田直哉の没後に放映された追悼番組では、主にテレビドキュメンタリーでの業績にスポットが当てられていた。そんな彼らに対し、土本典昭(6/24)のように、「自主製作・自主上映」を前提にドキュメンタリー映画を撮り続けた存在も見逃せない。

 戦後日本のドキュメンタリーを語る上では、映画『東京オリンピック』もまたはずせない作品だが、その総監督を務めた市川崑(2/13)は、アニメーターをふりだしに、戦後は劇映画の傑作を多数残したほか、CM、テレビドラマと幅広いジャンルで活躍した、まさに映像の時代が生んだ巨匠だった。

 市川崑が92歳の大往生だったのに対し、同姓の映画監督・市川準は59歳で突然逝った(9/19)。個人的にはその劇映画以上に、「タンスにゴン」「禁煙パイポ」といったCM作品が記憶に残る。その数日前に訃報が伝えられた野田凪(9/7)もまた、CMやミュージックビデオで映像の面白さを味わわせてくれた。

 映像時代の申し子といえば、フランスの作家、ロブ・グリエ(2/18)のヌーボー・ロマンなどと呼ばれた一連の小説作品における徹底した客観的な視覚描写は、やはり映画の影響を抜きには語れないだろう。彼自身、『去年マリエンバードで』の脚本をはじめ、何本かの映画を監督した映像作家でもあった。

 映像メディアの影響は美術の世界にもおよんだ。アメリカの美術家・ラウシェンバーグ(5/12)は、テレビやグラフ雑誌などを通じて流布されるイメージをそのままキャンバスにちりばめてみせ、ポップアートの先駆けとなった。アメリカでポップアートが全盛を迎えていた60年代には、日本ではあるビジュアル雑誌が100万部を突破する。その雑誌、『週刊少年マガジン』で編集長を務めた内田勝(5/30)は、「巨人の星」「あしたのジョー」などの名作を送り出した。同誌1970年正月号の巻頭特集「劇画入門」における「一枚の絵は一万字にまさる」という宣言は象徴的である。

 まさにその時代の『マガジン』に「天才バカボン」を連載し、ギャグをとことんまで追求した赤塚不二夫も、長い闘病の末鬼籍に入った(8/2)。同じく長い闘病生活の末に亡くなった人物としては、歌手のフランク永井(10/27)も思い出される(そのヒット曲「有楽町で逢いましょう」の歌碑が建てられたのは今年7月のことだ)。

 ちなみに、赤塚マンガの人気キャラの一つである不屈の猫・ニャロメは、60年代末の東大闘争において最後まで抵抗を続けた全共闘の学生たちに触発されて生まれたものだという。このとき事態を打開するため、東大構内への機動隊導入を要請したのは、当時の学長代行・加藤一郎(11/1)だった。

 東大闘争が60年代を象徴する事件だとすれば、三浦和義(10/11)の「ロス疑惑」と宮崎勤(6/17)の連続幼女誘拐殺人事件は80年代の象徴的な事件だった。いずれの事件も、メディアが彼ら当事者に与えた影響、また彼らをめぐる報道をも含め、現在までいたるさまざまな課題を残した。

 80年代といえば、バブル景気の発端といわれるプラザ会議(1985年)に出席した当時の日銀総裁澄田智(9/7)も今年死去している。くしくもというべきか、彼の死の翌週には、リーマン・ブラザーズが経営破綻し、アメリカ発の金融危機が世界中をかけめぐった。

 そのさなか、今年度の文化勲章に、金融工学で用いられる価格方程式の基礎となる公式を発案し、「ウォール街でもっとも有名な日本人」と呼ばれた数学者・伊藤清(11/10)が選ばれている。

 ここへ来て円高も加速している。そもそも現在の変動相場制は、1971年のアメリカのニクソン政権のドル防衛策に由来する。同政権はその3年後、ウォーターゲート事件で崩壊するが、そのきっかけとなったワシントンポスト紙のスクープは、「ディープ・スロート」と呼ばれる情報源からもたらされた。後年、その正体として元FBI副長官のマーク・フェルト(12/18)が名乗りをあげている。なお、この“情報源”を意味する隠語は、ジェラルド・ダミアーノ(10/25)が監督したポルノ映画のタイトルからとられたものだ。

 アメリカでのウォーターゲート事件に対し、日本政界に疑惑が持ち上がった事件としてロッキード事件がある。この戦後最大の疑獄事件は1976年、米上院公聴会での当時のロッキード社副会長・コーチャン(12/14)の証言により発覚し、田中角栄元首相の逮捕にまで発展したのは周知のとおりだ。

 最後に、月本裕(1/9)、草森紳一(3/20)、鈴木芳樹(5/25)、山口由美子(6/18)、島村麻里(8/24)といった、主に雑誌、あるいはネットを舞台に筆を振るったユニークな書き手たちの名前をあげて、本稿を締めたい。

 とりわけ草森、鈴木、島村の各氏は、面識はないものの知人の編集者を通じていろいろと話を聞いてるだけに(草森氏を除くお二人は当メルマガの寄稿者でもあった)、とても他人事とは思えない。それにしても、中国の古典に造詣が深く、文化大革命でのプロパガンダについての研究も残した草森氏が、もし北京五輪を見ることができたら、一体どんな感想を抱いただろうか?

 ……と、話がちょうど一回りしたところで、本稿でとりあげた人びと全員にあらためて哀悼の意を表したい。合掌。
  (初出 「週刊ビジスタニュース」2008年12月24日)

 物故者を振り返る5年分の記事、大晦日の本日は2008年分を再録します。これで最後です。2009年以降、今年までの記事一覧は以下のとおり。

 今年も読んでくださり、ありがとうございました。来年も何卒よろしくお願い申し上げます。では、みなさま、よいお年を!

現代史のなかの2009年物故者たち

 おそらく多くの人が思っていることでしょうが、今年は例年になく各界を代表する人物たちの訃報があいつぎました。

 今回、昨年に続きこの一年間の物故者を回顧するにあたって、文化人類学者の川喜田二郎(7/8。以下、日付は故人の命日を示します)の考案した「KJ法」などを使ったりしていざ整理にとりかかったものの、あまりにもとりあげるべき人物が多い上に、各人同士との接点がいくつもあったりして、かえって収拾がつかなくなってしまいました。

 しかしこの収拾のつかなさこそ、人と人とが、事象と事象とが複雑に絡み合った現代という時代の反映なのかもしれません。そこで、ここはあえて収拾のつかないまま、今年亡くなった人たちから接点を見出しつつ、2009年とはどんな年だったのか、さらには彼ら彼女らの生きた時代を振り返ってみたいと思います。

 今年は、日本とアメリカでの政権交代や昨年来の世界同時不況など、時代の変わり目を感じさせるようなできごとがあり、また、昭和や冷戦の終焉から20年を迎えるなどさまざまな節目の年でもありました。今年7月にはアメリカの宇宙船・アポロ11号による人類初の月面着陸から40年を迎えています。

 ちょうどアポロ11号が月に向かっているさなかの1969年7月18日、地上では米上院議員エドワード・ケネディ(8/25)が自動車事故を起こし、同乗の女性が水死したにもかかわらず現場を立ち去ったため起訴されていました(のち州法廷で禁固2カ月の有罪判決)。そもそも人類を月に送るという計画は、エドワードの兄であるジョン・F・ケネディが大統領在任中に提唱したものです。そう考えると、この事件はいかにも間が悪すぎました。

 アポロの月旅行は、アメリカの小説家、ジョン・アップダイク(1/27)の『帰ってきたウサギ』にも中心的メタファーとして登場します。同作を含む「ウサギ」4部作と呼ばれるシリーズの後半では、主人公のハリーが妻の父からトヨタの代理店を引き継ぎ成功を収め、80年代半ばには息子に家業を譲って隠居します。もちろん、ここには70年代以降の日本車の“侵略”という歴史的事実が背景にあるわけですが。

 自動車は20世紀における大量消費社会のシンボルでした。イギリスの小説家、J.G.バラード(4/19)はアップダイクよりもっと過激に、自動車事故でしか性的興奮を得られなくなった人々を描いた『クラッシュ』などの作品を発表しています。日本のノンフィクション作家の上坂冬子(4/14)も、戦後まもない時期のトヨタ自動車での勤務体験を記録した『職場の群像』でデビューしています。

 コピーライターで「日本デザインセンター」の創立メンバーでもある梶祐輔(10/4)は、トヨタの広告を40年近く手がけた、日本における自動車広告の第一人者でした。たとえば「白いクラウン」(68年)は、それまで黒塗りの高級車というイメージのあったクラウンをより幅広いユーザー層に広げるというコンセプトを一言でいいあらわしたコピーとして、いまだに語り継がれています。

 自動車業界はまた政界にも人材を送り込みました。米自動車ビッグスリーの一角、フォード社に管理システムを初めて導入し経営を再建したロバート・マクナマラ(7/6)は、社長昇進直後の61年、その手腕を買われてケネディ政権の国防長官に任命されます(ちなみに同政権は、経済ブレーンに経済学者のポール・サミュエルソン[12/13]を招いています)。

 ただ、次のジョンソン政権まで続いたその在任中、マクナマラは徹底した軍事予算の管理のもとベトナムへの軍事介入を推し進めました。やがて彼の精緻な計算は、ベトナム人民のゲリラ戦法の前に狂い始めます。ついには、戦争の泥沼化の責任をとる形で辞任へ追い込まれたのでした。

 ウォルター・クロンカイト(7/17)が、全米ネットワークの一つ、CBSテレビの『イブニング・ニュース』のキャスターとなったのはケネディ政権2年目の62年のこと。同年、日本でもキャスターニュース第1号となる『ニュースコープ』がTBSテレビで始まり、クロンカイトと同じく通信社出身の田英夫(11/13)がキャスターに抜擢されました。けれども、ベトナム戦争の報道をめぐって両者は対照的な道をたどることになります。

 67年に、当時の北ベトナムを取材し、これをドキュメンタリー番組『ハノイ――田英夫の証言』として放映した田は、アメリカがこの戦争に勝利するのは困難だという見通しを示しました。これをときの自民党政府が偏向報道だと非難、結果的に田はキャスターを降板しています。

 対してクロンカイトは翌68年、国の戦況報告への疑問からベトナムに飛びました。それまで中立主義を貫いてきた彼ですが、帰国後の報告では「いまやとるべき道は和平交渉しかない」と主張しました。これを受けて、ときの米大統領・ジョンソンは北ベトナムへの爆撃の停止、さらには次期大統領選への不出馬を決めたともいわれています。

 その後、テレビでの戦争報道は日常化し、91年の湾岸戦争では、空爆の中継映像がテレビゲームのようだと形容されたりもしました。このとき、日本ではニュース番組に頻繁に出演した軍事評論家の江畑謙介(10/10)が一躍ときの人となりました。

 テレビもまた、自動車とともに20世紀を象徴する存在です。日本でテレビ本放送が開始された53年当時、水の江滝子(11/16)らが出演したバラエティ番組の元祖ともいえる『ジェスチャー』が人気を集めました。

 水の江は戦前、松竹歌劇団の男役として脚光を浴びましたが、戦後はテレビ出演のほか日活のプロデューサーとして活躍しました。彼女が56年に製作した映画『太陽の季節』には、のちに結婚する長門裕之南田洋子(10/21)が主演しています。

 『ジェスチャー』は女性陣と男性陣が対抗するという形式で、それぞれのキャプテンを水の江と落語家の柳家金語楼が務めました。この金語楼の息子、山下武(6/13)は60年代にNET(現テレビ朝日)のディレクターとして『大正テレビ寄席』を手がけ、演芸ブームを巻き起こしました。しかしブームに乗じて類似番組がどんどんつくられるうちに人材が払底すると、落語家が狩り出されるようになります。三遊亭圓楽(5代目。10/29)ら当時の若手落語家が出演した『笑点』もそのような背景から生まれました。

 テレビ放送開始以来の人気番組といえば、日本テレビのプロレス中継もあげねばなりません。しかしそれもついに今年2月、地上波から消えてしまいました。力道山日本プロレスジャイアント馬場全日本プロレスの流れをくむ「プロレスリング・ノア」の地上波での中継打ち切りからまもなくして、ノアの社長でプロレスラーの三沢光晴(6/13)が急死しています。

 在京民放テレビ局のうち後発局であるフジテレビは、鹿内信隆・春雄父子による一族経営によって急成長をとげました。同局が「軽チャー路線」を打ち出した84年、春雄は、元NHKアナウンサーでフジに移籍していたキャスターの頼近美津子(5/17)を妻に迎えます。しかし結婚からわずか4年で春雄が急死。その後女優やコンサート・プランナーとして活躍した頼近もまた53歳という若さで亡くなりました。

 フジテレビ同様の父子経営といえば、松竹の奥山融(11/7)社長と和由専務父子の解任劇(98年)も思い出されます。

 テレビによって人気が高まったスポーツにはプロレス以外にプロ野球があります。山内一弘(2/2。旧名は和弘)は50年代から60年代にかけて大毎オリオンズ(現・千葉ロッテ)などで活躍した大打者、土井正三(9/25)は1965〜73年の読売ジャイアンツのV9に、主に2番打者として貢献した選手です。

 この二人には奇妙な共通点があります。それは、プロ野球の監督として大選手の才能を見抜けなかったという“悪評”がつきまとうことです。山内は社会人野球からロッテに入ったばかりだった落合博満の独特のバッティングフォームを見て、これではプロで通用しないと言い放ったといいます。土井は、オリックス入団2年目のイチローを一軍になかなか定着させませんでした。イチローが一軍に定着し、シーズン安打210本という日本記録を打ち立てるのは翌年、仰木彬監督に変わってからです。

 とはいえ、落合本人は、山内の高度な理論が当時の自分には理解できなかったとのちに語っています。イチローにしても、くだんの悪評について土井の死後、「そうじゃないのにね」と否定しました。

 なお、土井が監督を務めたオリックスは2004年に大阪近鉄バファローズと合併、オリックス・バファローズとして京セラドーム大阪を本拠地としました。もともと大阪ドームとしてオープンした同球場は、関西の大手私鉄近鉄の会長で球団オーナーだった上山善紀(8/25)によって建設が推進されました。

 上山はまた、三重県志摩半島に大規模リゾート・志摩スペイン村の建設を進めました。けれども、大都市から離れていることもあって経営は苦戦が続いています。これに対して、元千葉県知事・川上紀一(8/14)が実現を公約に掲げた東京ディズニーランドTDL)は、大都市型テーマパークとして大成功を収めました。ただし、当の川上は、1975年の知事選出馬前に不正献金を受けていたことが在任中の81年になって発覚、83年のTDLのオープンを待たぬまま辞任しています。

 TDLには87年、「キャプテンEO」というマイケル・ジャクソン(6/25)主演のアトラクションが登場しています。マイケル自身、大のディズニー好きで、その大邸宅をネヴァーランドと名づけたほどでした。

 マイケルが83年にリリースした「スリラー」は、そのプロモーションビデオ(PV)とともに世界的なヒットになりました。日本でも翌年にはアメリカのMTVと提携してPVを流す番組も始まったものの、国内アーティストにはPVはまださほど必要とされていませんでした。これについては、歌番組やCMでのイメージソングがその代わりを担っていたからとの見方もあります。そう考えると、忌野清志郎(5/2)の歌番組での、噛んでいたガムをカメラに向かって飛ばしたり、自分の曲の放送を“自粛”したラジオ局を非難する曲を突然歌い出したりといったパフォーマンスは、格好のプロモーションだったといえるかもしれません。

 プロモーションといえば、2016年の五輪招致のため東京都がつくった10分間のPVは、製作費に5億円もかかっていたことが判明し物議をかもしました。今回の五輪招致では、敗戦直後、競泳で立て続けに世界記録を出した古橋廣之進(8/2)にも、元JOC会長、国際水泳連盟副会長にして名誉都民という立場から協力が期待されていました。けれども、古橋は10月のIOC総会での最終投票を待たずにローマで客死、五輪招致も失敗に終わったことは周知のとおりです。

 往年のアスリートでは、56年のコルティナダンペッツォ冬季五輪のアルペン3種目で優勝したオーストリアのスキー選手で、のちに俳優に転身したトニー・ザイラー(8/24)も亡くなりました。ザイラーは日本にもたびたび訪れ、59年には松竹映画『銀嶺の王者』に主演しています。60年の来日時には東レの広告に登場、このとき「ことしの流行はザイラーの黒」というコピーを書いたのが、土屋耕一(3/27)でした。

 もともと資生堂宣伝部のコピーライター第1号として出発した土屋は、フリーになってからも資生堂の広告を手がけました。80年の「ピーチパイ」というコピーからは、竹内まりやの歌うイメージソング「不思議なピーチパイ」が生まれています。

 この「不思議なピーチパイ」の作曲を手がけたのは加藤和彦(10/17)でした(作詞は当時夫人だった安井かずみ)。加藤と広告のかかわりは深く、70年には“脱商品広告”のさきがけといわれる富士ゼロックスのテレビCM「モーレツからビューティフルへ」に出演、若者たちのフィーリングに訴えかけました。

 この一年は、先述の梶祐輔や土屋耕一のほか、日本のグラフィックデザインのパイオニアと称される早川良雄(3/28)、それに続く世代にあたる木村恒久(08年12/27)、福田繁雄(1/11)、粟津潔(4/28)と、広告業界周辺の人物の訃報が目立ちました。このうち粟津は、70年の大阪万博アミューズメントゾーンの基本構想計画にも参加していますが、これは今年閉園したエキスポランドの原型となるものでした。

 コピーライターでは、土屋の影響下から出発した眞木準(6/22)も亡くなっています。眞木は、93年に羽田孜小沢一郎らが自民党を離脱し新党を旗揚げしたさい、「新生党」という党名を考案するなど幅広い仕事を手がけました。

 津久井克行(10/2)を中心とする男性デュオグループclassの「夏の日の1993」がヒットした93年夏、ときの宮澤喜一内閣への不信任案可決を受けて総選挙が実施されます。同内閣で外相だった武藤嘉文(11/4)は、大平正芳首相の急死直後に大勝を収めた80年の総選挙を引き合いに出して、「宮澤さんもお亡くなりになれば……」と口を滑らせてしまいますが、羽田や小沢のほかにも離党者があいついだため自民党は大敗、日本新党細川護熙を首相とする非自民連立政権が発足しました。

 連立政権成立の立役者である小沢一郎は翌94年にはポスト細川政権もにらんだ上で、自民党の有力政治家だった渡辺美智雄らを切り崩しにかかります。

 渡辺をうながすべく、その側近だった柿澤弘治(1/27)たちが先行するかたちで自民党を離党、自由党(後年小沢のつくった同名の党とは別物)を結成しました。けっきょく渡辺の取り込みには失敗、細川に代わって羽田が政権を引き継ぎ、柿澤は同内閣で外相に就任します。ただしその在任期間は約2カ月と短いものでしたが。

 大蔵省出身の柿澤は、77年の参院選新自由クラブ(新自ク)から出馬し初当選を果たしました。新自クはその前年、ロッキード事件によってあかるみになった金権体質への批判から自民党を離党した河野洋平ら若手政治家たちによって結成された保守新党です。その総元締め的存在だったのが河野のいとこにあたる田川誠一(8/7)でした。

 70年代には、名古屋市長となった本山政雄(5/11)など全国の大都市に革新首長が誕生し、国政でも「保革伯仲」の時代を迎えていました。さらに、評論家の室伏哲郎(10/26)が「構造汚職」と呼んだ、自民党政権と官界・財界の癒着構造に起因する汚職事件があいつぎ国民の不満が高まります。新自由クラブと、先述の田英夫が代表となった社会民主連合社民連)は、こうした背景からそれぞれ保革を代表する都市型の新党として登場し、期待を集めました。

 けれども、新自クは勢力を伸ばせず86年に解散。河野などほとんどのメンバーは自民党に復帰したものの、田川だけはかたくなに金権政治の打破を訴え一人で進歩党をつくりました。社民連では早くから田ら「旧社会党派」と菅直人ら「市民派」とが対立し、細川政権発足時には当時の代表である江田五月が入閣しましたが、田は連立政権を批判して脱退、けっきょく94年に解党します。

 政界関係ではこのほか、2006年、当時の民主党執行部の総退陣にまで発展したいわゆる「偽メール問題」の火付け役である元衆院議員の永田寿康(1/3)が自殺、また麻生内閣財務相として出席したG7の財務相中央銀行総裁会議の終了後の“もうろう会見”で物議をかもした中川昭一(10/3)が、総選挙での落選後まもなくして急死するなど衝撃的なできごとがあいつぎました。

 麻生自民党から鳩山民主党への政権交代は、彼らの祖父にあたる吉田茂から鳩山一郎への政権交代(54年)と何かと重ね合わせられました。そういえば、83年の映画『小説吉田学校』で吉田を演じたのは森繁久彌(11/10)でした。その森繁に「国民のおじいちゃんのような方」だからとの理由で、鳩山一郎の孫から国民栄誉賞が贈られるというのは何か因縁めいているような……。なお、『小説吉田学校』で美術監督を務めたのは、黒澤明監督作品にも多数かかわった村木与四郎(10/26)でした。

 クロサワアキラといえば、ムード歌謡の「ロス・プリモス」のそれぞれ初代と2代目リーダーである黒沢明(4/9)と森聖二(10/18)が立て続けに亡くなっています。歌謡界での物故者はこのほか、作詞家の松井由利夫(2/19。代表作に氷川きよし箱根八里の半次郎」など)、石本美由起(5/27。美空ひばり「悲しい酒」など)、音羽たかし(8/6。ザ・ピーナッツ「情熱の花」など)、丘灯至夫(11/24。舟木一夫「高校三年生」など)、作曲家の三木たかし(5/11。石川さゆり津軽海峡・冬景色」など)がいます。

 歌謡曲がらみでは、『山口百恵は菩薩である』『大歌謡論』などたくさんの歌謡曲論を著した評論家の平岡正明(7/9)もぜひあげておきたい。その2カ月前には、平岡やルポライター竹中労とともに70年代に「3バカゲバリスタ」と称して活動を行なった革命思想家の太田龍(5/19)も亡くなっています。彼らにとって、アジアに対する日本の戦争責任の追及は重要なテーマでした。

 アジア各国でもかつての指導者たちの訃報があいつぎました。韓国前大統領の盧武鉉(5/23)が自殺した3カ月後には、彼の前任者であり、民主化運動のリーダーだった金大中(8/18)が死去。さらに73年の金大中拉致事件を主導したとされる元KCIA部長の李厚洛(イ・フラク。10/31)も亡くなり、同事件の真相究明はますます困難になりました。

 金大中は80年、民主化運動で国内に混乱を招いたとの理由で逮捕、一時は死刑宣告も受けますがのちに刑執行が停止され、しばらくアメリカで事実上の亡命生活を送っています。このとき、金はやはり亡命中だったフィリピンの野党議員、ベニグノ・アキノと親交を持ちました。ベニグノは83年、3年ぶりに帰国するも到着した空港で暗殺されてしまいます。86年のフィリピン2月革命でマルコス政権が倒れると、ベニグノの未亡人のコラソン・アキノ(8/1)が大統領に就任しました。

 鳩山首相は今年、「東アジア共同体」創設を提唱しました。いっそ、そのマスコットに、いまやアジア各国で人気を集めている臼井儀人(9/11)の『クレヨンしんちゃん』を起用してみてはいかがでしょうか。

 冷戦終結から今年で20年を迎えました。アメリカの国際政治学者、サミュエル・ハンティントン(08年12/24)は96年に刊行した『文明の衝突』のなかで、冷戦後の国際社会はいくつかの文明圏に分裂し、それらの対立・衝突によって世界秩序がつくられていくという見方を示しています。同書は鈴木主税(10/25)によって邦訳され、日本でも話題になりました。

 2001年のタリバンが首謀したとされる9・11テロ、それに先立つアフガニスタンバーミヤン渓谷の巨大仏像の破壊は、ハンティントンの予見が的中した事例ともいえます。なお、大仏の破壊にさいして、日本画家の平山郁夫(12/2)は、ユネスコ親善大使として抗議活動を行ないました。

 予見といえば、ドイツの振付家ピナ・バウシュ(6/30)の演出により89年11月に初演された舞台『パレルモパレルモ』では、幕が開くとともに400個もの煉瓦を積み上げた壁が一瞬にして崩れ落ち、観衆に衝撃を与えました。ベルリンの壁の崩壊はそれから約1週間後のことです。振付家では、バウシュの先行世代にあたるアメリカのマース・カニングハム(7/26)も今年亡くなっています。

 本稿でとりあげた自動車にしてもテレビや広告にしても、大きな転換期を迎えています。出版の世界もまた例外ではありません。評論家の中島梓(5/26。栗本薫の名で作家としても活躍)は26年前に著した『ベストセラーの構造』で、赤字を補うために出版点数を増やすというやりかたはいずれ破綻し、出版社も本も著者も容赦ない淘汰にさらされるのではないかと懸念しましたが、その予見はほぼ的中してしまいました。

 中島は前掲書において、現代社会はスケープゴートを必要とする社会であり、ベストセラーにもその傾向が見られることを指摘しています。それを読んでふと、昨年のいまごろの飯島愛の死(08年12/17?)を思い出しました。それにしても彼女といい、大原麗子(8/3)や山城新伍(8/12)といい、芸能人の孤独死があいついだ一年でもありました。

 最後にとりあげるのは、やはりこの人を置いてほかにないでしょう。100歳で大往生したフランスの文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロース(10/30)です。

 80年代にめざましい経済成長をとげつつあった韓国を訪れたものの、朝鮮文明の遺跡しか求め歩かなかったレヴィ=ストロースを見て、現地のある学生は「レヴィ=ストロースは、もはや存在しないものにしか興味を示さない!」と言ったといいます。

 原始文明と先進文明という区分を取っ払い、すべての人類に不変的な構造を見出したこの偉大なる思想家にとって、たかだか一世紀のうちに起きた変動など、人類の長い営みからすればささいなものとしか思えなかったのかもしれません。

 これまでにあげた人たちすべての人生がすっぽり納まるほど生きながらえた人物をとりあげたところで、本稿を締めたいと思います。あらためて、彼ら彼女らに哀悼の意を表しつつ――。

  (初出 「ビジスタニュース」2009年12月24日)