時代を仕掛けた2010年物故者たち

 一年間のごぶさたでした。

 ……と、TBSテレビの往年の歌番組『ロッテ歌のアルバム』での司会者・玉置宏(2/11。以下、日付は故人の命日を示す)の決まり文句「一週間のごぶさたでした」をもじってみたところで、一昨年・昨年に続き、今年もこの一年間に亡くなった著名人たちを振り返ってみたい。

 玉置の没後、昭和のヒット歌謡を彼のナレーション付きで収録したCDシリーズ『玉置宏の昭和ヒットコレクション』がリリースされた。そのうちVol.2に収録された小林旭の「昔の名前で出ています」のイントロには、こんな玉置によるナレーションがかぶせられていた。

 〈木の葉が枯れて冬になる/若葉が萌えて夏になる/たった一つのこの愛を抱き続けて日が過ぎる/一つの川が流れるように/海までひたすら流れるように/私の恋はあなただけ/「昔の名前で出ています」〉

 思えば今年は、まさに「昔の名前で出ています」とばかりに、芸能人やミュージシャンの活動再開が目立った。たとえば、小沢健二。小沢が13年ぶりのライブツアー決定を発表したのと前後して、アメリカの小説家、J.D.サリンジャー(1/27)の訃報が流れた。アメリカ文学に造詣の深い小沢だけに、そのタイミングに驚いたファンも多いのではないだろうか。サリンジャーもまた45年ものあいだ完全に隠遁状態にあったため、その訃報じたいが「昔の名前で出ています」という感があった。

 復帰組としてはほかに歌手の佐良直美がいる。27年ぶりの新曲を発表した佐良は、30年前、とあるスキャンダルを芸能レポーター梨元勝(8/21)にスクープされた。芸能活動を休止したのもそれが原因だとまことしやかにささやかれていたが、佐良は復帰時にこれを明確に否定、梨元についても「直接話をうかがってみたかった」とその死を悼んだ。

 さて、「昔の名前で出ています」を作詞した星野哲郎(11/15)には、元遠洋漁業の船乗りだったせいもあってか、この歌以外にも流浪を歌った作品が多い。たとえば、北島三郎「函館の女」「風雪ながれ旅」、都はるみアンコ椿は恋の花」、黒沢明ロス・プリモス「城ヶ崎ブルース」――ここでは吉岡治(5/17)作詞の「天城越え」とニアミスする――、あるいは水前寺清子「東京でだめなら」などが思い出される。

 「東京でだめなら」というつもりではなかっただろうが、東京都の副知事として1964年の東京オリンピックを成功させたのち、いったん東京を離れて、大阪での万博開催に尽力したのが鈴木俊一(5/14)である。鈴木は、次期知事の呼び声も高かったものの、自民党の指名を得られず、都庁を離れた。その直後、日本万国博覧会協会の事務総長に推され、開幕までの準備、1970年3月から半年間におよぶ会期中の運営と、万博の実務レベルでの全責任を負うことになる。

 大阪万博については開催前より、美術評論家針生一郎(5/26)が「民衆不在の祭典」と批判するなど反対の声もあったが、結果的に、多くの学者や芸術家たちが動員された。民族学者の梅棹忠夫(7/3)もその一人である。このとき梅棹は、テーマ館に展示するため、世界各地の民族資料の収集を担当している。集められた資料は、のちに万博会場跡地に建設され、梅棹が初代館長に就いた国立民族学博物館の基礎となった。

 この万博はまた、日本のコンテンツ産業の一つの原点ともいえる。電気事業連合会が出展したパビリオン「電力館」のプロデュースを手がけた本橋浩一(10/26)は、これを契機にアニメーション製作に乗り出し、1975年には日本アニメーションを設立、世界名作劇場シリーズや『ちびまる子ちゃん』などを手がけた。

 尖閣諸島沖での海上保安庁の巡視船と中国漁船との衝突事件の動画がYouTubeに流出したり、内部告発サイト「ウィキリークス」にアメリカの外交機密文書が大量に公開されるなど、今年ほど情報のあり方をめぐって議論が起こった年もないだろう。先述の梅棹忠夫は、すでに1963年に情報産業が中心となる時代の到来を予見、「情報産業論」という論文を『放送朝日』という雑誌に寄稿している。

 『放送朝日』は大阪の民放・朝日放送が発行していた広報誌である。当時の同局の最大の人気番組は何といっても、藤田まこと(2/17)主演のコメディ『てなもんや三度笠』だった。1960年代の多くの日本人にとって、日曜日の夕方には大阪発の『てなもんや三度笠』と、東京発(日本テレビ)のバラエティ『シャボン玉ホリデー』を見るのが定番だったという。『シャボン玉ホリデー』にはクレージーキャッツが出演、そのメンバーだった谷啓(9/11)が「ガチョーン」などのギャグを披露し、流行語となった。

 藤田まことは『てなもんや三度笠』の放映終了後、しばらく人気が低迷するが、1973年、朝日放送製作のテレビ時代劇『必殺仕置人』で江戸町奉行所の同心・中村主水(もんど)を演じて以来、同役で必殺シリーズの顔となった。中村主水は設定こそ関東出身ながら、金をもらって仕置を請け負うというところは、じつに関西的だった(実際、東京のキー局の上層部は、このことを嫌がり変更を求めたという)。

 1984年に阪神間を中心に起こった江崎グリコや森永製菓に対する脅迫事件(グリコ・森永事件)では、ルポライター朝倉喬司(11/6に死亡確認)が、「かい人21面相」を名乗った犯人の関西弁による脅迫状と河内音頭との共通性を指摘するなど、事件の背景に関西の風土をみてとった。

 グリコ・森永事件のように、メディアを通じて犯行を誇示するといった類いの犯罪を「劇場型犯罪」と呼ぶ。この種の犯罪の嚆矢としては、1968年に、在日朝鮮人2世の金嬉老(3/26)が、静岡・寸又峡温泉の旅館に篭城し、集まった報道陣を前に民族差別の現状を訴えた事件をあげることもできよう。あるいは、小説家の立松和平(2/8)が『光の雨』(1998年)で題材とした1971〜72年の連合赤軍事件(とくにあさま山荘事件)も、劇場型犯罪の走りといえる。

 そういえば、劇作家・演出家のつかこうへい(7/10)の出世作熱海殺人事件』(1973年初演)は、幼なじみの女工を殺した「ありきたりの犯人」を、刑事たちが「どこに出しても恥ずかしくない、よりすぐれた犯人」に仕立て上げようとするという、後年の劇場型犯罪を予見するかのような作品だった。

 都市を文字どおり劇場に仕立て上げた先駆的存在として、阪急グループが生んだ宝塚歌劇がある。元阪急電鉄社長の小林公平(5/1)は、宝塚歌劇団の理事長だった1974年に『ベルサイユのばら』を企画、ヒットさせるなど文化事業に力を入れた。そのいっぽうで1988年には、戦前からの伝統を誇ったプロ野球チーム・阪急ブレーブスをオリエンタル・リース(現・オリックス)に売却している。

 その阪急ブレーブスからオリックス・ブルーウェーブ(現・バファローズ)時代を通じて、それぞれ「ブレービー」と「ネッピー」というマスコットキャラのスーツアクターを務めたのが、かつて巨人や阪急でプレイした島野修(5/8)である。球場でのマスコットのパフォーマンスはいまやプロ野球ファンの楽しみの一つとなっているが、それも島野の存在なしにはありえない。なお、島野がかつて演じた「ネッピー」は、来シーズンからの球団デザイン一新により、今季かぎりで卒業することになった。

 プロ野球界では、いわゆる「江川事件」の“犠牲”となる形で、1979年に巨人から阪神にトレードされ「悲劇のエース」とも呼ばれた小林繁(1/17)、巨人優勝に貢献した昨シーズンかぎりで引退した木村拓也(4/7)と、元選手の急死があいついだ。両者とも、それぞれ日本ハム、巨人のコーチに就任したばかりだったこともあり衝撃は大きかった。

 このほかにも、「ミサイル打線」と称された大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の主砲の一人・田宮謙次郎(5/5)、立教大学野球部の黄金時代の監督で、プロ経験は皆無ながら国鉄(現・東京ヤクルト)スワローズでも指揮をとり、国鉄時代唯一のAクラス入り(1961年・3位)へと導いた砂押邦信(7/18)、その砂押から立大時代に指導を受けた、元南海(現・福岡ソフトバンク)ホークスの選手で、引退後は日本ハムなどの監督を務め「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二(10/7)が亡くなっている。

 球界ではまた、横浜ベイスターズの売却話が持ち上がったものの、買収に名乗り出た住生活グループと、現在の親会社であるTBSホールディングスとのあいだで話がまとまらず、破談に終わった。とくに焦点になったのは、本拠地の移転問題であったという。

 ベイスターズの本拠地である横浜スタジアムの建設に際し、横浜市の技監として各方面との調整にあたったのが田村明(1/25)である。田村はこのとき、ベイスターズの前身で、それまで川崎に拠点を置いていた大洋ホエールズを迎えるにあたり、チーム名に横浜と冠することを条件につけた。結果的にこの条件は受け入れられ、その後、チームの愛称や親会社が変わっても継承されている。

 もともと民間の都市プランナーだった田村だが、飛鳥田一雄市長の招きで横浜市入りし、1968年から13年間にわたって、ハードもソフトも含む総合的な都市計画を推進した。田村はこれを「まちづくり」と名づけている。まちづくりといえば、戦後を通じて日本各地の民家をフィールドワークし、建造物の保存や町の景観の保護などにも大きな影響を与えた建築史家の伊藤ていじ(1/31)の名もぜひあげておきたい。

 田村明は、横浜市にあって民間企業とも協調しながらまちづくりを進めた。1980年代以降、こうした手法は民間活力(民活)の導入として脚光を浴びるようになる。都市計画において民活を大胆に取り入れたのは何といっても、鈴木俊一知事時代の東京だろう。大阪万博を成功させたのち、1979年に念願の東京都知事に就任した鈴木は、4期16年におよんだその在任中に、都庁の新宿移転を実現、臨海副都心の建設も端緒につけた。

 鈴木都政のもとでは都内各地に多くのハコモノが建設された。江戸東京博物館もその一つである。JR両国駅の旧国鉄用地に建てられた同博物館は1993年、国技館の横に開館した。ほぼ同時期、国技館内にある相撲博物館の館長を務めていたのが花田勝治、元横綱若乃花幹士(初代。9/1)である。

 現役時代のライバル・栃錦より20年も長生きをし、82歳と歴代横綱では稀有な長寿だった初代若乃花だが、その晩年は、弟(初代貴ノ花)の早世や甥兄弟(花田勝貴乃花親方)の確執に加え、角界の不祥事もあいつぎ、幸せなものだったとは言い切れまい。

 名アスリートとして栄光を得ながらも、晩年に挫折を経験した点では、オランダの柔道家アントン・ヘーシンク(8/27)も似ている。東京オリンピックの柔道・無差別級において、神永昭夫を下して金メダルを獲得したヘーシンクは、70年代にプロレスラーとして活躍したのち、柔道の世界に戻り後身の指導に専念した。1987年からは国際オリンピック委員会IOC)委員としてカラー柔道着の導入などの功績を残したものの、ソルトレーク冬季オリンピック招致にからむ買収スキャンダルで1999年、警告処分を受けている。

 多くの処分者が出たこのときの五輪スキャンダルでは、当時のIOC会長、ファン・アントニオ・サマランチ(4/21)の責任も厳しく問われた。サマランチは、1980年に会長に就任すると、財政の逼迫していたIOCを、放映権の販売やスポンサーシップの導入などにより再建を果たしている。しかしこうしたオリンピックの急速な商業主義化は、サマランチの長期支配もあいまって、組織の腐敗をもたらすことにもつながってしまった。彼の栄光の絶頂は、1992年、母国スペインでのバルセロナ・オリンピックの開催を見届けたときではなかったか。冷戦の終結直後に行なわれたこの大会は、政治的対立による参加国のボイコットも久々になかった。

 ソビエト連邦が解体されたのはバルセロナ五輪の前年のことである。ソ連解体は、当時の副大統領、ゲンナジー・ヤナーエフ(9/24)らがゴルバチョフ大統領の静養中に企てたクーデターの失敗以降、一気に現実のものとなった。解体直前のソ連政府では、グラスノスチと呼ばれた情報公開が急速に推し進められたが、そのなかで、第二次大戦中の1940年にソ連の領土内で起こった、ソ連軍によるポーランド軍将校たちの虐殺事件(カチンの森事件)も初めて公式に認められた。

 カチンの森事件の発生から70年を迎えた今年、ロシア政府の主催により、ポーランド大統領のレフ・カチンスキも出席して追悼式典が行なわれる予定だった。だが、カチンスキは現地に向かう途中、搭乗していた政府専用機が墜落、同乗していた夫人や同国の多くの要人などとともに死亡が確認された(4/10)。この事故はロシアだけでなく、カチンスキとは歴史認識の問題で対立していたドイツなど、各国に大きな衝撃を与えた。

 冷戦終結は、旧ソ連のほかヨーロッパ各国でさまざまな公文書が公開される契機となった。イギリスの現代史家、トニー・ジャット(8/6)の大著『ヨーロッパ戦後史』(2005年)もそうした幸運なしには完成しなかったという。日本でも今年、民主党政権の意向により、沖縄返還交渉に関するものなど多くの外交文書が公開された。これら新資料をもとに、わが国の戦後史も書き換えられるべき時期に来ているのかもしれない。

 明治維新から戦後へといたる政治史については、「55年体制」という言葉を発案した政治学者の升味準之輔(8/13)や、共同通信社の元記者で、政治評論家の内田健三(7/9)といった人たちが多くの著作を刊行している。このうち内田は、細川護熙熊本県知事選に出馬する際、同郷のよしみから協力を頼まれて以来、細川が1993年に首相に就いたのちもことあるごとに相談に乗っていた。

 細川を首相に担ぎ上げたのは、いうまでもなく小沢一郎である。しかし当時より、小沢には「強権」などといったレッテルがつきまとった。内田はこのような「小沢一郎悪党論」が出てくるのは、小沢という政治家の持つ特異な本質ゆえと説明した。その小沢の評価は、昨年の政権交代を経たいまも定まるどころか、批判と称賛のあいだでますます激しく揺れ動いているように思われる。ちなみに、竹下登元首相の政治団体代表を務めるなど、「最後のフィクサー」と呼ばれた異色の財界人・福本邦雄(11/1)は7年前のインタビューのなかで、小沢について「企画力はあるのだろうが、情がない」「暗い」と評している。

 内田や福本のほかにも、元首相・田中角栄の地元後援会「越山会」の会計責任者で、田中の愛人でもあった佐藤昭子(3/11)、長らく裁判所制度などの改革に取り組み、細川内閣では法務大臣も務めた法学者の三ケ月章(11/14)など、今年は政界のブレーン、黒幕的存在の人々の訃報が目立った。

 ブレーンといえば、1980年代に中曽根康弘内閣が設置した臨時行政改革推進審議会には、日本教職員組合日教組)委員長や日本労働組合総評議会(総評)議長を務めた槇枝元文(12/4)も委員として参加していた。槇枝は、日教組委員長時代の1974年、全国統一4・11ストを指導して地方公務員法違反に問われるなど、急進的労働組合の指導者の代表的存在であった。

 旧国鉄労働組合である国鉄労働組合国労)と国鉄動力車労働組合動労)も、大規模ストライキを実施するなど急進的な姿勢で知られた。とくに後者は「鬼の動労」と恐れられたが、中曽根内閣の推進した国鉄の分割・民営化に対しては、最初こそ国労とともに反対していたものの、やがて賛成に転じる。国鉄民営化の実現へと大きく前進させたこの方針転換を決定したのが、動労中央本部委員長の松崎明(12/9)だった。1987年の国鉄民営化後には、鉄道労連(現・JR総連)やJR東労組の幹部を務めた松崎は、新左翼セクト革マル派」の結成時からのメンバーとしても知られる。

 海外の政界ブレーンに目を向ければ、ケネディ米大統領の側近で、弁護士・作家のセオドア・C・ソレンセン(10/31)があげられる。ソレンセンは、1961年のケネディの就任演説に、「国が何をしてくれるのだろうかと問うことはやめていただきたい。反対に自分が国のために何をなすことができるかを問うていただきたい」という名文句を盛りこんだことで知られる。

 ケネディはまた、大統領選挙中に対立候補ニクソンとテレビ討論を行なうにあたり、映画監督のアーサー・ペン(9/28)から「カメラをまっすぐに見据え、答えを短く」とのアドバイスを受けた。これが有権者に自信と落ち着きのある雰囲気を印象づけ、大統領選勝利へとつながったといわれる。

 ペンはその後、1967年に『俺たちに明日はない』を監督した。反体制的、アンハッピーエンドといった、それまでのハリウッド映画にはない新しい傾向を持つこの作品を、『タイム』誌は「アメリカン・ニューシネマ」と称し、以後、米映画界に大きな流れが形成されることになった。俳優のデニス・ホッパー(5/29)が監督・出演した『イージー・ライダー』(1969年)もそのなかで生まれた名作である。

 文化の世界にも、政界と同じく仕掛人や黒幕がいる。たとえば、イギリスの音楽プロデューサー、マルコム・マクラーレン(4/8)。彼は1970年代半ば、セックス・ピストルズというロックバンドを世に送り出した。ピストルズは、マルコムとそのパートナーでブティック「セックス」を共同経営していたヴィヴィアン・ウエストウッドや、グラフィックデザイナーのジェイミー・リードらとの共同プロデュースによるものだともいえるが、それでもすべての決定権を握っていたのはマルコムだった。やがてメンバーのジョニー・ロットン(のちのジョン・ライドン)は、彼に支配されることに嫌気が差してピストルズを脱退してしまう。

 クセの強いプロデューサーといえば、日本にも西崎義展(11/7)がいた。1970年代にテレビアニメから劇場版シリーズへと進展した『宇宙戦艦ヤマト』のプロデュースを手がけた西崎は、昨年には自身初の監督作品である『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を劇場公開した。この間、『ヤマト』の著作者は西崎なのか、それともマンガ家の松本零士なのかをめぐって法廷で争われたが、最終的に西崎であることが認められている。それにしても、『ヤマト』における西崎と松本の関係は、ピストルズにおけるマルコムとジョニー・ロットンの関係とどこか似てはいまいか。

 出版界では、JICC出版局(現・宝島社)の編集者として『別冊宝島』を創刊し、のちに洋泉社の社長となった石井慎二(2/12)をはじめ(付録つき女性誌電子タバコなどで売り上げを伸ばし続ける現在の宝島社を、石井はどう見ていたのだろうか)、文芸誌『新潮』の新人編集者として太宰治の連載「斜陽」(1947年)を担当し、その後『週刊新潮』の創刊に参加、編集長も務めた野平健一(7/5)、『文藝』『海燕』の編集長として中上健次島田雅彦よしもとばなななどといった作家たちを育てた寺田博(3/5)、人文・社会科学系の学術専門書を多数出版しているミネルヴァ書房の創業者・杉田信夫(9/14)、米男性誌ペントハウス』を創刊し、のちにハードコアポルノ映画『カリギュラ』(1980年)も製作したボブ・グッチョーネ(10/20)と、名物編集者・経営者らの死去があいついだ。自宅で刺殺されるという痛ましい死をとげた「鬼畜ライター」の村崎百郎(7/23)も、もともとはマイナーな海外文学やカルチャー誌の出版で知られたペヨトル工房の編集者だった。

 ノンフィクション作家の黒岩比佐子(11/17)は、『編集者 国木田独歩の時代』(2007年)では作家・国木田独歩がグラフ雑誌の発行のため設立した「独歩社」を、亡くなる前月に刊行された遺作『パンとペン』では社会主義者堺利彦のつくった日本初の編集プロダクション「売文社」を、というぐあいに、その時代の文化人たちの接点となった“場所”を好んで題材にとりあげた。

 社会科学者・評論家の小室直樹(9/14)が、参加者の所属・専攻・年齢を問わず門戸を開き、広く社会科学の基礎を指導した自主ゼミからは、社会学者の橋爪大三郎宮台真司などが輩出されたが、これもまた文化的接点の一種といえるだろう。

 文化の本体は、地上に出ている花というよりは、むしろ地下に菌糸のようにはりめぐらされた、ややこしい人間関係みたいなものにこそある……と、ユニークな文化論を展開したのは数学者の森毅(7/24)だ。キノコに関する編著もある森はさらに、文化を樹木に寄生するカビやキノコになぞらえ、キノコ=文化は時の権力の成長の証しであるいっぽうで、権力から養分を吸い尽くしてつぶす役割も果たしていると喝破した。

 戦後誕生した民間放送は、経済成長とともに発展をとげつつあった日本企業にある意味、寄生することで育ったということもできるかもしれない。さらにその民放のなかでも、放送局に“寄生”することで、若者たちの解放区たりえたのがラジオの深夜放送だったとはいえまいか。俳優・声優の野沢那智(10/30)が白石冬美とDJを担当したTBSラジオ『パックイン・ミュージック』、渡邊一雄(10/11)がプロデューサーを務め、桂三枝谷村新司明石家さんまなどがパーソナリティーを担当した毎日放送の『MBSヤングタウン』などは、一時代を築いた深夜番組だった。

 在京の民放テレビのなかでは後発局にあたるフジテレビには、女性のテレビ制作者の草分けである常田久仁子(11/3)もその設立に参加していた。常田は、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』など同局での萩本欽一のすべての出演番組を手がけ、萩本から「テレビ界のおっかさん」と慕われた人物である。コント55号としてテレビに出始めたばかりの萩本は、常田から「テレビは女の人が見てんの。女はね、いくらコントがおもしろくても、汚いかっこしてると見てくれないわよ」とアドバイスを受けたという。思えばこのときこそ、浅草の芸人だった萩本が、テレビタレントへと生まれ変わった瞬間だったのかもしれない。

 「テレビは女の人が見ている」ということは、同じくフジテレビが放映しヒット作となった昼のメロドラマ『日日の背信』(1960年)が証明していた。このドラマに主演したのが池内淳子(9/26)である。池内は後年、NHK連続テレビ小説天うらら』(1998年)でヒロインの祖母を演じ、介護される様子も描かれたが、実生活では実母の介護経験を持ち手記も著している(ちなみに池内は、やはり今年亡くなった俳優の池部良[10/8]、小林桂樹[9/16]と、松本清張原作の映画『けものみち』で共演している)。

 すでに日本は、本格的な少子・高齢社会に突入している。今年亡くなった著名人のなかにも、舞踏家の大野一雄(6/1)、女優の長岡輝子(10/18)と、100歳をすぎてなおも活動を続けていた人たちがいた。

 小説家・劇作家の井上ひさし(4/9)の長編小説『吉里吉里人』(1981年)では、日本からの独立を宣言した東北の農村が、海外から一流の医師を集めて医療立国を標榜し、不老不死のユートピアをめざすさまが描かれた。果たして人間が永遠に生き続けることなど、本当に可能なのか。

 美術家の荒川修作(5/19)は、「人間は死んではならない」という課題を設定し、妻で詩人のマドリン・ギンズと作品をつくり続けた。死なない=「天命の反転」のために荒川がとった方法は、延命治療などではなく、「人間の可能性の拡張」というものだった。彼の手がけた「養老天命反転地」(岐阜県養老町にある体験型庭園)や「三鷹天命反転住宅」(東京都三鷹市)は、歩いたりするのに特別なバランス感覚が必要とされる。後者について、荒川は「ここに住むと身体の潜在能力が引き出され、死ななくなる」と説明した。

 荒川はまた、三重苦を乗り越えたヘレン・ケラーを「天命の反転」を成し遂げた人物として称えた。そういえば、先述の梅棹忠夫もまた、60歳をすぎて失明したが、それを克服して亡くなるまでになおもたくさんの本を著した。あるいは、脳梗塞によって右半身麻痺や言語障害に陥り一時は絶望のふちに立ちながらも、やはりこれを乗り越え、克明な闘病記『寡黙なる巨人』(2007年)を上梓するなど著述活動を続けた免疫学者の多田富雄(4/21)も、「天命反転」を達成した人物とはいえまいか。

 絵本作家・佐野洋子(11/5)の『100万回生きた猫』(1977年)は、100万回生き返りながら一度も他者を好きになったことのなかった猫が、一匹の猫を初めて本気で好きになり、相手が死ぬと、あまりの悲しさに泣き続け、ついには自分も死んでしまい二度と生き返ることはなかった……という話だった。この絵本から私は、人生は一回きりだからこそ幸福や充実感が得られるのだというメッセージを読み取った。しかしそれは、荒川修作のめざしたものと何ら矛盾しないような気がする。たとえ何度も生き返ることができても、自分の可能性を引き出せないのであれば、それは生きているとはいえないように思うからだ。

 とはいえ、自らの可能性を十分に出し切って死ぬことはやはり難しい。アニメーション映画監督の今敏(8/24)は新作の制作途中、46歳にして末期がんで亡くなったが、その死後公開された遺書により、がんを宣告された彼が、生き延びるための方法を模索するいっぽうで、「ちゃんと死ぬための準備」を可能なかぎりして逝ったことがあきらかにされた。この遺書を読んで、自分が同じ境遇に立たされたとき、ここまでできるだろうかと思った人は結構多いのではないか。

 おそらく、ここまでとりあげた人の多くは、自分の可能性を出し切ったとまではいかなくても、引き立すべく常に努力を続けてきたはずである。今年亡くなった人にはまた、各分野の黒幕やプロデューサー的な人たちが目立つ。これらの人々はいわば、時代の可能性を引き出したともいえないか。時代を仕掛け、歴史を動かした彼ら彼女らを称えながら、あらためて哀悼の意を捧げたところで、本稿を締めたい。

  (初出 「ビジスタニュース」2010年12月29日)

情報化の時代を生きた2011年物故者たち

 すいません、2011年が終わる前にもうひとつだけ、この1年に亡くなった著名人を振り返ってみたいんですがね――なんて言うと、テレビドラマ『刑事コロンボ』のピーター・フォーク(6/23。以下、日付は故人の命日を示す)のセリフみたいですが――、こうすることで、2011年がどんな年だったのかを知る糸口みたいなものがつかめると思うのです。

 2011年という年は、あの大震災と大津波、それから原発事故のあった3月11日を境にまっぷたつに分断され、それ以前のことはよく覚えていないという人も多いのではないでしょうか。たとえば、参議院議長在任中に死去した西岡武夫(11/5)は、自身の所属政党のトップである菅首相を批判していましたが、それは何も震災後に始まったことではありません。あと、ひょっとすると大相撲の春場所も震災の影響で中止になったと思いこんでいる人もいるかもしれませんが、あれは八百長問題の発覚によるものです。角界ではここ数年、外国人力士に日本人力士がすっかり押された観があったものの、9月場所の琴奨菊に続き、11月の九州場所では稀勢の里が、師匠の鳴門親方(元横綱隆の里。11/7)の急逝という事態に見舞われながらも大関昇進を決めました。

 他方、2010年末から2011年頭にかけてのチュニジアでの「ジャスミン革命」を発端に、北アフリカ・中東のアラブ諸国に広がった民主化要求運動は、いまも強い記憶に残っているという人も多いかと思います。このうちリビアでは反政府デモから内戦状態に陥り、1969年以来続いてきたカダフィによる独裁体制が崩壊。首都を追われたカダフィはその後、潜伏先で反カダフィ派に発見・拘束された際に死亡しました(10/18)。

 こうした一連の動きは「アラブの春」とも呼ばれます。しかし1989年の東欧諸国での民主化が、ヴァツラフ・ハヴェル(12/18)の主導した旧チェコスロバキアの「ビロード革命」をはじめ、ほとんどの国で血を流すことなく実現されたことを思えば(旧体制指導者が処刑されたルーマニアなど例外はあるものの)、「アラブの春」で払われた犠牲はあまりにも大きく、手放しでは喜べません。同様に北朝鮮についても、総書記・金正日の急死(12/17)をもって独裁体制から脱却して穏便に民主化、さらに朝鮮半島の南北統一にいたると考える人は少ないでしょう。

 アラブ諸国のうちエジプトでもまた、30年にわたり君臨したムバラク大統領が失脚しました。エジプトといえば、古代エジプトの女王を描いたアメリカの大作映画『クレオパトラ』(1963年)は、当のエジプトでは公開されなかったという逸話があります。その理由は、主演のエリザベス・テイラー(3/23)が撮影中にユダヤ教に改宗したため。これ以外にもわがままのかぎりを尽くしたテイラーのため製作費ははねあがり、製作会社の20世紀フォックスは倒産寸前にまで追いこまれます。エリカ様どころの話ではありませんね。なお、テイラーが子役として銀幕デビューしたのは1943年、同年には日本でやはり子役の沢村アキヲ、のちの長門裕之(5/21)が映画『無法松の一生』に出演しています。

 私生活もふくめ華やかな話題を振りまいたテイラーは、生きながらにして伝説的存在でした。アメリカの画家ウォーホルは、マリリン・モンロープレスリーなどとともにテイラーをポップアイコンとして作品にとりあげています。このほかにも多くの有名人のポートレートを手がけたウォーホルのこと、90年代以降も生きていたら、インドの霊的指導者、サイ・ババ(4/24)あたりも描いていたかもしれません。ウォーホルらによって60年代のアメリカで全盛を迎えたポップアートですが、元はといえばイギリスの画家、リチャード・ハミルトン(9/13)が1956年に発表した「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか?」と題するコラージュ作品に端を発します。

 美術界では1950年代から60年代にかけてじつに多様な潮流が生まれました。日本でも「世紀」の桂川寛(10/16)、「具体美術協会」の元永定正(10/3)、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の吉村益信(3/15)など、前衛芸術を志向する幾多のグループから作家が次々と輩出されています。同時期には美術評論においても瀬木慎一(3/15)や中原佑介(3/3)といった新人が現れ、前衛の作家たちの伴走者として活躍するようになります。瀬木はその後、日本の現代美術だけでなく浮世絵やピカソなど幅広く研究し、女優の高峰秀子(2010年12/28)と絵画をテーマにした対談集まで出しています。

 一方の中原佑介は1970年、現代美術の最先端を紹介する第10回日本美術国際展(東京ビエンナーレ)のコミッショナーを務めました。このビエンナーレは、2005年に東京都現代美術館で一部が再現されています(企画展「東京府美術館の時代 1926〜1970」)。このとき堀川紀夫という作家が再現した、自然石を美術館へ郵送するという“作品”では、石に針金でくくりつけられた札に宛名として当時の東京都現代美術館の館長だった氏家齊一郎(3/28)の名前が書かれていました。氏家は当時の日本テレビ会長でもあります。

 80年代に一旦は読売グループを離れた氏家ですが、90年代初めに盟友の渡邉恒雄読売新聞社長に就任したのを機に日本テレビに復帰しました。彼らの台頭で影が薄くなったのは、それまで巨人軍オーナーや読売新聞社主などを歴任しグループ内で実権を握ってきた正力亨(8/15)です(2011年は正力のほかにも阪神タイガース久万俊二郎[9/9]、ヤクルトスワローズの松園直已[12/9]と各球団の元オーナーが亡くなっています)。

 日本プロ野球史上前人未到の巨人の9年連続日本一は、正力がオーナーに就任した翌年、1965年から始まります。V9時代、じつに5回も日本シリーズで巨人と対戦した西本幸雄(11/25)監督率いる阪急ブレーブスは一度も日本一になれませんでした。西本はこの前後、大毎オリオンズ近鉄バファローズでも監督として日本シリーズに進出したものの、いずれも制覇はならず「悲運の闘将」と呼ばれることとなります。

 1974年に巨人の日本シリーズ進出を阻んだのは、与那嶺要(2/28)監督率いる中日ドラゴンズでした。ハワイ出身の日系2世である与那嶺は、巨人などでの現役時代、ダイナミックな走塁やスライディングなどアメリカ流の野球を日本に伝えました。アメリカ人を父に持つ伊良部秀輝(7/27遺体発見)も、日本人離れしたプレイと言動で毀誉褒貶のある選手でした。千葉ロッテマリーンズや米メジャーリーグのニューヨークヤンキースなどで活躍した伊良部は2005年の現役引退後、アメリカで永住権を得たものの亡くなる直前には日本へ帰りたいと漏らしていたともいいます。

 伊良部が活躍した1990年代、日本野球機構にあってプロ野球の国際化やフリーエージェント制の導入に尽力したのが第9代コミッショナー吉國一郎(9/2)です。法務庁出身の吉國は、1989年のコミッショナー就任以前には千葉県知事の沼田武(11/26)が千葉市幕張新都心開発の目玉として建設を進めた日本コンベンションセンター幕張メッセ)の初代社長も務めました。

 東京では21世紀初めにも開発ブームが起こりました。氏家齊一郎日本テレビ会長在任中の2003年には、汐留に新社屋(日本テレビタワー)が完成、翌年より営業を開始しました。汐留にはこれより一足先の2002年に電通本社ビルが竣工しています。当時の電通会長である成田豊(11/20)は、氏家とは新社屋だけでなくジブリ映画の製作者としても名前を連ねた人物です。

 電通の新社屋が完成したこの年、成田が実現に向け力を注いだ日韓共催FIFAワールドカップが開かれました。FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会での「なでしこジャパン」の優勝に日本が沸いた2011年は、サッカー界でも訃報があいつぎました。銅メダルに輝いた1968年のメキシコ五輪サッカーの日本チームでキャプテンだった八重樫茂生(5/2)、八重樫とともに同五輪に出場したのち、日本代表監督や浦和レッズの初代監督を務めた森孝慈(7/17)、それから90年代以降、五輪やW杯で活躍した松田直樹横浜・F・マリノスから松本山雅FCに移籍した今年、練習中に突然倒れ、34歳の若さで亡くなっています(8/4)。

 前出の氏家齊一郎が東大在学中、先輩の渡邉恒雄とともに学生運動に入れこんでいたことはよく知られています。1950年、東横映画が戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』の映画化を企画した際、その内容に氏家らの所属する東大全学連は思想的な理由から横槍を入れました。当時、東横映画の若きプロデューサーであった岡田茂(5/9)は、氏家を呼び出し説得にあたったといいます。東横映画は同作のヒットの翌年、合併により東映となります。岡田は60年代に任侠路線を発案して大成功を収め、1971年には社長に就任しました。岡田社長時代の東映は、映画産業が斜陽を迎えるなか『仁義なき戦い』(1973年)に始まる実録路線を当て、さらに角川映画との提携で山をつくります。なかでもミュージシャンのジョー山中(8/7)が出演、主題歌も歌った『人間の証明』(1977年)はメディアミックスの効果もあり爆発的にヒットしました。

 それにしても、岡田といい氏家や成田といい、また講談社の社長の野間佐和子(3/30)といい、2011年は巨大メディアの経営者たちの逝去が目立ち、時代の曲がり角を感じさせました。そのことをより印象づけたのはやはり、7月に実施された地上波テレビのデジタル放送への全面移行(ただし東北3県を除く)でしょう。地デジ化は視聴者、とくに若年層のテレビ離れにますます拍車をかけるのではないかとも懸念されています。しかしじつはこれより前、1980年前後にも若者のテレビ離れが進んでいたといいます。いま一度若者たちをテレビの前に引き戻すべく、フジテレビのプロデューサーだった横澤彪(1/8)が仕掛けたのが『THE MANZAI』(1980年。2011年には漫才グランプリとして復活しましたね)であり、それから『オレたちひょうきん族』(1981年)や『笑っていいとも!』(1982年)といったバラエティ番組でした。これら番組は、お笑いの世界に“フィクションからノンフィクションへ”ともいうべき革命をもたらします。

 上記のうち『ひょうきん族』は、『THE MANZAI』で人気を集めた漫才コンビをバラして起用した点でも画期的といわれます。もっとも、放送作家出身のタレント・前田武彦(8/5)が大橋巨泉と司会を務めたバラエティ番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(1969年)ではすでに、当時人気絶頂にあったコント55号坂上二郎(3/10)と萩本欽一が2人別々でコントを演じていました。

 横澤彪は『いいとも』に、NHKを定年退職したばかりだったテレビディレクターの和田勉(1/14)をレギュラー出演者として引っ張り出してもいます。テレビ本放送の始まった1953年にNHKに入局した和田は、演劇とも映画とも異なるテレビドラマならではの表現を模索し続け、女性脚本家の草分けのひとりである大野靖子(1/6)と組み、『天城越え』(1978年)や『ザ・商社』(1980年)といった名作も生みました。また、2011年に没後30年を迎えた向田邦子とも『阿修羅のごとく』(1979年)などの作品を手がけています。向田作品といえば、その常連俳優として『だいこんの花』『七人の孫』に出演した竹脇無我(8/21)、『あ・うん』『父の詫び状』に出演した杉浦直樹(9/21)が思い出されます。

 向田の死後、その年のもっともすぐれたテレビドラマの脚本に与えられる賞として「向田邦子賞」が制定され、第1回には市川森一(12/10)の『淋しいのはお前だけじゃない』(1982年)が選ばれました。市川はNHK大河ドラマでも3度脚本を手がけており、その最初の作品『黄金の日日』(1978年)では徳川家康児玉清(5/16)が演じ、セリフは少ないものの存在感を示して評判になったそうです。

 いくら“終わったコンテンツ(オワコン)”といわれようとも、テレビの威力にはいまだに大きなものがあります。2001年9月11日に起きたアメリカでの同時多発テロは、テレビを通じて全世界の人たちにインパクトを与えるという効果を意識して実行されたものとも考えられます。この事件の首謀者とされるテロ組織「アルカイダ」の指導者オサマ・ビンラディンパキスタン国内に潜伏中、米軍により殺害されたと報じられました(5/2)。

 ビンラディン以外にもテロリスト、あるいは政治活動家の物故が目立った1年でもありました。たとえば、60年代末の東大紛争や成田空港建設反対運動(三里塚闘争)などにかかわり新左翼のイデオローグとして知られた荒岱介(5/3)、1970年の赤軍派によるよど号ハイジャック事件の最年少メンバー(当時16歳)だった柴田泰弘(6/23遺体発見)、アラブに渡った日本赤軍のメンバーで、1970年代にいくつかのハイジャック事件に関与した丸岡修(5/29)があげられます。ちなみに、よど号事件のさい赤軍派は「われわれは明日のジョーである」(原文ママ)と宣言しましたが、出崎統(4/17)監督によるテレビアニメ『あしたのジョー』の放映が始まったのは事件発生の翌日(70年4月1日)でした。出崎はその後1980年と81年には同作の劇場版を手がけ、このとき主人公・矢吹丈のライバル力石徹の声を俳優の細川俊之(1/14)があてています。

 赤軍派からは前記のよど号グループや日本赤軍のほかに、革命左派(京浜安保共闘)と統一をはかった連合赤軍が派生しています。連合赤軍は1971年から翌年にかけて群馬山中で軍事訓練を行ないましたが、警察の山狩りにより幹部である森恒夫永田洋子(2/5)が逮捕されました。長野県軽井沢の別荘地で起こったあさま山荘事件は、残されたメンバーたちが逃亡の末に引き起こしたものです。この事件のあと、連合赤軍内で「総括」と称するリンチ殺人が行なわれていたことが判明、社会に大きな衝撃を与えます。これをきっかけに若者たちによる政治運動は退潮の一途をたどることになりました。

 映画監督の長谷川和彦は長らく連合赤軍を題材にした映画を構想していて、そのなかで永田洋子樹木希林が、森恒夫原田芳雄(7/19)が演じることを考えていたそうです。映画でアウトロー的な役を数多く演じた原田だけに、実現していたらどんな演技を見せたのか気になるところです。

 さて、学生運動の熱は、カウンターカルチャーサブカルチャーといわれるものに移っていった観があります。たとえば60年代末に全国に広がった学園紛争の火元のひとつである日本大学では、森田芳光(12/20)が紛争中で学校に行けなかったから……との理由で映画を撮り始めます。森田は、従来の撮影所経由ではない自主制作映画から劇場映画に進出した監督の嚆矢でもありました。

 連合赤軍事件の起こった1972年には、佐藤嘉尚(11/19)が発行人を、当代の人気作家が交代で責任編集を務めるというユニークな雑誌『面白半分』が創刊しています。同誌は、野坂昭如が責任編集を務めた号で永井荷風作と伝えられる戯作「四畳半襖の下張」を掲載したところ、警視庁から猥褻文書として告発を受けました。佐藤と野坂を被告とする「四畳半襖の下張」裁判はこれより前、1960年代にサドの『悪徳の栄え』をめぐり訳者の澁澤龍彦と発行人(現代思潮社社長)の石井恭二(11/29)が被告となった「サド裁判」などとともに文芸作品をめぐる代表的な猥褻裁判として知られます。

 SMのうちS(サディズム)は、いうまでもなくサドの名に由来します。戦後まもなくに創刊されたSM雑誌『奇譚クラブ』からは、沼正三の「家畜人ヤプー」という稀代の奇作が生まれました。沼は覆面作家であり、その正体が長らく取沙汰されてきたのですが、1982年に東京高裁判事の倉田卓次(1/30)とする説が雑誌に掲載され物議をかもしています(ただし本人はこれを否定)。マゾヒストの核心を突いた本格的なM小説「ヤプー」について、「私の持つ嗜好趣味とは反対の被虐趣味の分野に入るものだが、その卓絶した文章力に驚かされた」と評したのは、同じ雑誌にS小説「花と蛇」を連載した団鬼六(5/6)です。

 60年代から70年代にかけてはサブカルチャーを語ろうという動きも活発に起きました。音楽評論家の中村とうよう(7/21)が1969年に、新しい音楽としてのロックを批評的に論じるべく『ニューミュージック・マガジン』(現『ミュージック・マガジン』)を創刊したのはその走りといえます。また、マンガ評論家の亜庭じゅん(1/21)らは『迷宮』というマンガ批評集団の活動を進めるなかで、同人誌即売会の開催を思い立ちます。こうして1975年に始まったのがコミックマーケットでした。コミケは、イデオロギーなど既成の価値観にとらわれず自分たちの言葉でマンガを語ろうという亜庭たちの情熱の産物だったともいえます。

 自分の言葉を持とうとしたという点では、同時期に一世を風靡した女性アイドル3人組のキャンディーズも同じでした。1977年の彼女たちの「普通の女の子に戻りたい」という突然の解散宣言には、事務所など周囲からのお仕着せではなく自分たちの意思で行動したいという願望がこめられていたように思います。翌年の後楽園球場でのキャンディーズ解散コンサートののち、メンバーのひとりだった田中好子(4/22)は一時活動休止を経て、女優として芸能界に復帰します。自分の言葉で語るという姿勢は、その葬儀で流された病床からの最期のメッセージにもしっかり表れていました。

 田中の女優としての代表作である映画『黒い雨』(1989年)では脚本を石堂淑郎(11/1)が手がけています。石堂は映画以外にテレビでの仕事も多く、北杜夫(10/24)の長編小説を原作としたドラマ『楡家の人びと』の脚色も手がけています。

 キャンディーズのレコードは、当時まだ新興のレコード会社だったCBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックレコーズ)からリリースされました。1968年の同社設立に携わり、キャンディーズのほか南沙織山口百恵などといったアイドル路線を敷いたのが、東京芸大卒の元声楽家でのちにはソニー社長、会長を歴任した大賀典雄(4/23)です。

 大賀はオランダのフィリップス社と共同でのコンパクトディスクの開発にも深くかかわり、1982年に商品化します。CDは前後してソニーが送り出したウォークマンとともに世界的なヒット商品となります。が、ソニーはCDにより音楽のデジタル化に、ウォークマンでは携帯音楽プレイヤーという新分野にそれぞれ端緒を開いたにもかかわらず、両者の融合であるデジタルオーディオプレイヤーによって世界を席巻することはできませんでした。代わりにそれを達成したのは、米アップル社の前CEOスティーブ・ジョブズ(10/5)が2001年に送り出した「iPod」でした。ソニーがこの分野で失敗したのは、傘下にレコード会社を持つゆえ著作権保護を優先しなければいけない事情もあったと説明されます。

 ジョブズの亡くなる前日に発売された最新鋭のスマートフォンiPhone 4S」には音声認識人工知能が組みこまれていました。人工知能(AI)という言葉を発案し、その研究の第一人者となったのがジョン・マッカーシー(10/24)です。このほか、コンピューターの標準オペレーティングシステムである「UNIX」を開発したデニス・リッチー(10/12)や、著作権の切れた古典作品をネット上に掲載していく「プロジェクト・グーテンベルク」の提唱者で、“電子書籍の父”とも呼ばれるマイケル・S・ハート(9/7)も、コンピューターと電子文化の歴史に大きくその名を刻みました。

 テレビやコンピューターの登場する以前から、テクノロジーは人間の知覚や感性にさまざまな影響を与えてきました。旧東ドイツ出身のドイツ文学者・メディア理論家のフリードリヒ・キットラー(10/18)や、広範な批評で知られた多木浩二(4/13)は、家具・印刷物・写真・蓄音機・映画・タイプライターなどといったモノを通じて文化史を考察しています。モノと人間の関係といえば、日本の工業デザイナーの草分けである柳宗理(12/25)は、デザイナーはタッチしていないものの、その用途に即して自然とデザインされたモノ(たとえば野球のボールの縫い目など)に美を見出し、それを匿名のデザイン、「アノニマス・デザイン」と呼びました。こうした見方は、彼の父・柳宗悦が興した民藝運動の精神を継承したものでもありました。

 落語にもまた匿名の芸という側面があると思うのですが、噺を演じるなかでどうしても“私”を出さずにいられなかったのが落語立川流家元の立川談志(11/21)でした。「落語とは、人間の業の肯定である」と定義した談志は、業とはその良し悪しに関係なくやらずにはいられないものであり、それがあったからこそ「文明」も生まれたと説明しています。さらに、文明から取り残されたものに光を当てたものを「文化」と呼び、「文明は、文化を守る義務がある」と言っているのが面白い。

 談志の考えにならうなら人類は業にしたがって自然を征服し、快適な生活を手に入れたわけですが、その代償は小さくありませんでした。21世紀に入るとノーベル平和賞でも環境保全の分野が選考対象に加えられ、ケニアの環境活動家であるワンガリ・マータイ(9/25)がその最初の受賞者(2004年)となりました。

 60年代、工業化の次に来る社会を示した「脱工業(化)社会」という概念がアメリカの社会学者ダニエル・ベル(1/25)によって提唱されます(著作としてまとめられたのは1973年ですが)。来たるべき社会を特徴づけるものとして情報を重視したベルの言説に対応する形で、同時期の日本では「情報化」という語が、経済企画庁の官僚から大学教授に転じた林雄二郎(11/29)らによって発案されました。林は民族学者の梅棹忠夫を中心とするサロンにも参加し、そこに集まった作家の小松左京(7/26)たちとの議論はやがて日本未来学会の設立、そして1970年の大阪万博へと発展していくことになります。

 父親から継いだ町工場を経営していた昭和30年代に、関西の民放ラジオで夢路いとし・喜味こいし(1/23)の漫才番組の台本を書いていたこともある小松は、同時期よりSF小説を書き始め、1973年には9年がかりの長編『日本沈没』を刊行しました。その作中には「戦後の三十余年間、日本の、とくに大都会の人々は、巨大な災害に対して、瞬間的に身を処するマナー――戦前までに、大火や地震や水害などの数百年間を通じて形成されてきた『災害文化』ともいうべきものをきれいに失ってしまっていた」という一文が出てきます。岩手県出身の津波研究家・山下文男(12/13)は、津波のときは他人をかまわずてんでばらばらに逃げなさいと教える「津波てんでんこ」という三陸地方の言い伝えを広め、先の東北を襲った大津波でも少なからぬ人たちが救われました。「災害文化」とはまさにこういうものを指すのでしょう。

 小松自身も1995年の阪神・淡路大震災を体験しています。この震災について、彼は新聞連載で1年をかけてさまざまな角度からルポを行ない『小松左京の大震災'95』という本にまとめました。東日本大震災のあとには、将来の自然災害に備えるべく、様々な分野の専門家を組織して「総合防災学会」をつくれないかと提案をしたり、共著『3・11の未来』の序文で「私は、まだ人間の知性と日本人の情念を信じたい。この困難をどのように解決していくのか、もう少し生きていて見届けたい」と書いた小松でしたが、まもなくして亡くなりました。阪神・淡路大震災ののち神戸市では当時の市長・笹山幸俊(12/10)のもと復興計画が推し進められましたが、果たしてこのときの経験が今回の震災からの復興にどれだけ活かせるでしょうか。

 ……と、まあ、このほかにもまだまだとりあげたい人物はいるのですが、これ以上あちこちへ行ったり来たりすると、声優の滝口順平(8/29)よろしく「おやおや、また寄り道ですか〜」なんて言われそうなので、ひとまずこのへんにしておきましょう。それにしてもこうして振り返ると、ひとつの時代が終わったような思いをつくづく抱きます。ただ一方で、安易に「時代の終焉」を口走るのは、原発の事故処理のある段階の終了をもって「事故の収束」を宣言するのと同じくらい性急な判断ではなかろうか、と思ったりもします。とりあえずここは、ひとつのステップが終わったぐらいに考えて、彼ら、彼女たちの遺したもの(負の影響も含めて)を糸口に、2012年以降のビジョンを見出したいところです。

 最後にあらためて、本稿でとりあげた人たちに加えて、東日本大震災で亡くなった人びとにも哀悼の意を表しつつ本稿を締めたいと思います。

  (初出 「ビジスタニュース」2011年12月27日)

「国のかたち」を問うた2012年物故者たち

 北方領土竹島尖閣諸島と、日本と近隣諸国のあいだで領土問題があらためて再燃するなど、日本の戦後史上、2012年ほど「国のかたち」が問い直された年はないかもしれない。このうち尖閣諸島をめぐっては中国国内で反日デモが激化した。その混乱のさなか、中国大使の丹羽宇一郎の後任として、外務省生え抜きの西宮伸一に辞令が下るも直後に急死している(9/16。以下、カッコ内の日付は故人の命日を示す)。

 領土問題のみならず、年末の総選挙では、景気回復、雇用、社会保障、TPPに代表される貿易自由化の問題、エネルギー問題、地方分権、はたまた憲法改定と、「国のかたち」の再規定をうながす案件が争点となった。選挙の結果、民主党から自民党へ政権が戻り、同時に前年の震災からの復興、原発事故の処理という課題も引き継がれた。

 原発事故の損害賠償をめぐっては、1970年代の公害裁判を参考にするべきだとの意見も見られる。とはいえ、高度成長期に生じた公害問題は完全に解決したわけではない。水俣病については、その症状がありながら、国の基準では患者と認められない人たちもまだかなり存在する。そんな人々を救うべく「水俣病被害救済特別措置法」が2009年に施行されたものの、同法にもとづく救済策の申請は2012年7月末をもって締め切られた。50年以上にわたり水俣病と向き合い続けた医師の原田正純(6/11)は自らも白血病と闘いながら、死の直前まで少しでも多くの未認定患者らが救済を受けられるよう奔走した。

 それにしても、国家とはそもそも何だろうか。評論家の吉本隆明(3/16)は『共同幻想論』(1968年)においてこの難題に取り組んだ。同書は、1960年代後半に隆盛をきわめた学生運動のなか多くの若者たちが手に取ったとされるが、内容の難解さゆえ読破できた者は案外少ないかもしれない。だがもともと詩人である吉本が用いた「共同幻想」という言葉のインパクトは強かった。それが実際に意味するところを理解する人は少なくとも、大きな影響をもたらすにいたった。

 吉本は『共同幻想論』のなかで、『古事記』や『日本書紀』に見られる国生み神話を参照している。こうした神話は日本のみならず南太平洋の島々にも見られるものらしい。映画『モスラ』(1961年)で伊藤エミ(6/15)・ユミによる双子の姉妹デュオ「ザ・ピーナッツ」が演じた「小美人」と怪獣モスラの関係は、こうした神話を踏まえつつ創作されたものだった。

 巨大な蛾の姿をしたモスラは、カイコがモデルになっている。カイコの繭から糸を引いて絹をつくる方法は、日本を含むアジアの広い地域に見られる文化的特色の一つだ。この地域が常緑広葉樹の広がる森林帯であることに目をつけ、そこでの文化の共通性を探ったのが、哲学者の上山春平(8/3)ら京都大学人文科学研究所の学者たちによる『照葉樹林文化』(1969年)である。上山はこのほかにも世界史との比較による日本国家の特質を探究している。

 現実の国家は、まずもって国際的な承認を前提とする。パティ・ロイ・ベーツ(10/9)は1967年、第二次大戦中にイギリス軍がつくった人工島の海上要塞を占拠し、「シーランド公国」として独立を宣言した。しかし、シーランド公国を承認する国はついに現れなかった。

 これに対し、カンボジアの前国王ノロドム・シアヌーク(10/15)が、1982年に共産主義ポル・ポト派と共和主義のソン・サン派とともに発足させた「民主カンボジア連合政府」は、行政機関を持たない典型的な“ペーパー・ガバメント”であったものの、カンボジアの正統政府として多くの国から承認され、1989年までは国連での代表権も与えられていた。1978年のベトナムの侵攻以降、カンボジアは事実上、親ベトナム政権の支配下にあったが、シアヌーク派をはじめ各勢力はこれに対抗するべく、本来敵対する関係にありながら反ベトナムという名目だけで手を結んだのだ。もっとも、連合政府の大統領であったシアヌークは当時、海外亡命中の身にあった。

 シアヌークは1955年に政権掌握のため一旦王座から退き、1993年に新生「カンボジア王国」の国王に復帰するまでは「殿下」と呼ばれることが多かった。日本でも三笠宮家の第一王子、?仁親王(6/6)は「ヒゲの殿下」として国民から親しまれた。福祉活動に専念するべく一時、皇籍離脱を宣言して話題を呼んだ親王は、マスコミを通じて将来の皇室のあるべき形などを率直に語った異色の皇族であった。

『裏声で歌へ君が代』……といっても、これは大阪市の公立高校の教職員の合言葉ではない。作家の丸谷才一(10/13)が1982年に発表した長編小説のタイトルだ。小説の形をとった国家論ともいうべき同作には、台湾の独立問題が重要なモチーフとして登場する。「金儲けの神様」と呼ばれた経営コンサルタントで作家の邱永漢も戦後まもなく、東大を卒業すると生まれ故郷である台湾に戻り独立運動に参加している。その直木賞受賞作『香港』(1956年)など初期作品も、日本と中国のあいだで不条理にも揺れ動く台湾人のアイデンティティを問うものであった。

 韓国の文鮮明(9/3)が創始した世界基督教統一神霊協会統一教会)における、神を中心に人類一家族の世界をつくろうという理念は、やはり朝鮮半島の分断という時代背景抜きには語れない。統一教会の布教活動は「原理運動」と呼ばれ、信者と家族間でトラブルが生じるなど日本でも社会問題化した。

 ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス(1/24)は、バルカン半島の複雑な歴史を背景に『ユリシーズの瞳』(1996年)などの作品を残した。アンゲロプロスと同じ1936年生まれの若松孝二(10/17)もまた、ピンク映画、一般映画にかかわらずその多くの作品において国家と個人の関係について鋭くえぐりだした。近年も『キャタピラー』『11・25自決の日 三島由紀夫の若者たち』、そして遺作となった『千年の愉楽』(2013年春公開予定)とほぼ毎年のように意欲作を発表していた。両監督とも奇しくも交通事故による突然の死であった。

 若松の作品でもとりあげられた三島由紀夫は、日本映画において一種タブーともいえるテーマだった。1985年にアメリカ人監督によって撮られた伝記映画『Mishima』はいまだに日本では正式に公開されていない。同作で美術を手がけたのが、アートディレクターでデザイナーの石岡瑛子(1/21)である。石岡はこれを機に国際的に活躍するようになる。広告の世界から出発した彼女のデザインの対象は、出版物、展覧会、CDジャケット、舞台美術、サーカス、映画衣裳(2012年公開の『白雪姫と鏡の女王』がその遺作となった)など多岐にわたった。

 石岡は、1970年代に手がけたファッションビル「パルコ」の一連の広告によって脚光を浴びた。かつてセゾングループの経営戦略において尖兵的役割を担ったパルコだが、同グループの解体後は森トラストに買収され、2012年にはさらにJ.フロント リテイリングに譲渡された。森トラストの社長である森章と、森ビルの前社長・森稔(3/8)は実の兄弟ではあるが、現在両社のあいだに資本関係はない。

 弟の章が堅実な経営方針をとったのに対し、兄の稔は父から受け継いだ貸しビル業に飽き足らず、東京都心の土地を集約し、高層ビルを中心とした職住接近の新たな都市開発に人生を捧げることになる。2003年にオープンした「六本木ヒルズ」はその代表作である。

 森は文化事業にも力を入れ、六本木ヒルズの森タワーの最上部には森美術館を設けている。森美術館では2011年から翌年にかけて「メタボリズムの未来都市展」が開催された。メタボリズムとは1960年代に新進気鋭の建築家やデザイナーたちによって提唱された運動だが、その中心的メンバーの一人だった建築家の菊竹清訓(2011年12/26)はくだんの回顧展の会期中に逝去している。菊竹らメタボリズムグループは、高度成長期に膨張を続けた大都市で生じていた様々な問題を解決するため、大胆なプロジェクトを続々と発表した。そのほとんどは実現しなかったものの、菊竹らメンバーはその後も国内外の都市計画や国土開発で重要な役割を担うことになる。

 ブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤー(12/5)は、同国の新首都ブラジリアの建設にかかわったことで知られるが、自分はあくまで政府機関など個々の建物を設計したにすぎず、ブラジリアの業績はその都市計画を統括したルシオ・コスタのものだと語っている。20世紀には、ニーマイヤーが多大な影響を受けたフランスの建築家ル・コルビュジエとともに、ドイツのデザイン学校「バウハウス」によって機能的なモダンデザインが世界に広まった。日系2世としてアメリカに生まれた写真家・石元泰博(2/6)は、第二次大戦後のシカゴでバウハウス直系のデザイン教育を受けている。

 石元は写真を通じて社会とのかかわりを積極的に持とうとした。その原点は、デザイン学校在学中に、東京裁判での東條英機を撮った写真を雑誌で見たことにあった。このとき彼は、「東條に同情するカメラマンはいい顔を撮るし、彼を否定する者は逆の撮り方をする。写真家は政治家にならなくとも、一枚の写真で世論をリードできると思った」という。

 元首相・東條英機の次男、東條輝雄(11/9)は戦前には零戦の開発、さらに戦後初の国産輸送機YS-11の開発にかかわったエンジニアだった。YS-11開発にあたり各メーカーからエンジニアを集めた寄り合い所帯「日本航空機製造」にあって設計部長を務めた東條は、部下たちに自分の考えを押しつけることなく、十分議論させたうえで最終的な判断を下したという。のちに彼は三菱自動車の社長も務めた。富士通の社長を務め「中興の祖」と呼ばれる山本卓真(1/17)も技術畑出身であり、国産コンピュータ開発を手がけた経験を持つ。

 戦後しばらく航空機の製造が禁じられ、航空宇宙産業で出遅れた日本に対し、アメリカはこの分野で世界をリードした。1961年には当時のケネディ大統領の「1960年代の終わりまでに人間を月に送りこむ」との演説を受け、NASAアメリカ航空宇宙局)によるアポロ計画が開始された。歌手アンディ・ウィリアムス(9/25)の「ムーン・リバー」が大ヒットした1962年、ニール・アームストロング(8/25)は宇宙飛行士に選抜され、その7年後の1969年7月20日アポロ11号の船長として月面に人類初の第一歩を記すことになる。

 月面着陸の成功ののち人類はさらに遠い天体をめざすことになると思われたが、1972年にアポロ計画が終了して以来、いまのところ人は月より先には行っていない。それでも無人探査機による天体の探査は続けられ、2012年8月には火星にNASAの探査車が着陸、その着陸地点は「ブラッドベリ」と命名された。その名は、アメリカの作家で『火星年代記』(1950年)を書いたレイ・ブラッドベリ(6/5)からとられている。

 ブラッドベリのいまひとつの代表作『華氏451度』(1953年)は、執筆当時、全米に吹き荒れていたレッドパージ共産主義者追放)の嵐に抗して生まれたものとされる。しかしそうした政治的な弾圧以前にブラッドベリが危惧したのは、高度に発達した技術やメディアを手にした人々が思考停止に陥ることだったのではないか。彼は同作のある版のあとがきで、自宅近所で犬を散歩していた女性が、小型ラジオで音楽を聴くのに夢中になり危なっかしく歩くさまを見てショックを受けたと書いている。この話のラジオを携帯電話などに置き換えれば、現在にそっくり当てはめることができるだろう。晩年、彼が自作の電子書籍化のオファーを拒否したことも、こうしたエピソードを読むと腑に落ちる。

 音楽評論家の吉田秀和(5/22)は、「薄気味の悪い話」(1974年)というエッセイのなかで、ある国際機関から自著や論文を登録したと逐一通知されることに対し、自分の仕事を自分があずかり知らないところで見張られ、番号をつけられ、資料として扱われるようになるというのは、薄気味悪いことだと書いている。何でもかんでも情報化して整理保存するという、現代文明の一つの特徴に対し、吉田は疑念を訴えたのだ。

 吉田は新聞での連載エッセイやラジオ番組、あるいはコンサートなどを通じて一般向けにクラシック音楽や現代音楽を紹介することにも熱心だった。また1948年には桐朋学園付属の「子供のための音楽教室」の創設にも参加している。ここで室長を務めたのが作曲家の別宮貞雄(1/12)だ。作曲家としての別宮は、戦後隆盛をきわめた前衛音楽を真っ向から批判している。これに対し、同じく戦後を代表する作曲家の一人、林光(1/5)は積極的に前衛的手法を作品に採り入れた。林はまたラジオやテレビの劇伴のほか、映画音楽も多数手がけている。とりわけ新藤兼人(5/29)の監督作品は本数からいって断トツである。

 新藤の作品には林が音楽を担当した『第五福竜丸』(1959年)や『さくら隊散る』(1988年)など、原水爆による悲劇をテーマにしたものが少なくない。マンガ『はだしのゲン』(1973年)の作者・中沢啓治(12/19)のように被爆経験こそないものの、広島出身の新藤は作品を通じて反核反戦を一貫して主張し続けた。

 新藤は生涯に2度結婚しているが、女優の乙羽信子は2番目の妻となる。乙羽は宝塚歌劇の娘役時代に、男役スターの春日野八千代(8/29)と共演することが多く、終戦直後、「ゴールデンコンビ」として人気を集めた。1950年代には乙羽や淡島千景(2/16)ら大勢のタカラジェンヌたちが映画界に引き抜かれたが、そのなかにあって春日野は亡くなるまで宝塚に在籍した。彼女が宝塚に入ったのは少女歌劇がブームになっていた昭和初期のこと。宝塚と松竹歌劇団が人気を競ったこの時代は“少女の時代”であったのかもしれない。ちょうど同時期には、1932年に12歳でデビューし国際的に活躍したバイオリン奏者の諏訪根自子(3/6)が「天才少女」として注目された。

 女優の森光子(11/10)も宝塚歌劇に憧れた少女の一人であった。その出発点は映画だが、むしろ舞台、そしてラジオやテレビの世界で活躍することになる。終戦後は長く病気のため休業したのち、再起をかけて放送局に自分を売りこんでまわった。関西出身の森は、地元企業である松下電器(現・パナソニック)とのかかわりも深く、フィルムではなくスライドによる同社の洗濯機のCMに出たのが最初だという。出演したテレビドラマの多くも松下提供の番組であった。母親役のイメージが定着していた森と、家電メーカーである松下の企業イメージがマッチしたということだろうか。

 最終的に2017回を数えるロングランとなった森主演の舞台『放浪記』の上演が始まった1961年、松下電器では創業者・松下幸之助の後継社長としてその娘婿の松下正治(7/16)が就任する。同社を総合エレクトロニクス企業へと育てあげた正治のあと、1977年には山下俊彦(2/28)が新社長となる。取締役26人中25番目の末席にあった山下の異例の抜擢は「山下跳び」と呼ばれ話題を呼んだ。社長就任後の彼は、経営体質改善など抜本的な改革に取り組むことになる。

 山下はかつて松下の系列会社であるウエスト電気(現・パナソニック フォト・ライティング)に出向、経営を建て直した実績があった。住友銀行(現・三井住友銀行)の副頭取だった樋口廣太郎(9/16)も、1986年に当時経営不振に陥っていたアサヒビールに社長として乗りこみ、アサヒスーパードライのヒットもあって見事再建を果たした。

 あるいはJR東日本の副社長だった細谷英二(11/4)は2003年、経営危機に陥ったりそなホールディングスの会長に転じ、公的資金を使って不良債権の処理にあたるとともに、サービス強化など経営改革に取り組んだ。そのなかでりそなは、中小企業や個人を主な取引相手とするリテールバンクへの転換をはかり、必然的に大手企業を切り捨てることになった。細谷が敷いたこうした路線は、事業拡大に積極的だった樋口とは対照的といえる。もっとも樋口の社長時代には、バブル景気という追い風もあった。

 1980年代後半、急激な円高などに対応するべくとられた低金利政策により、市中には潤沢な資金が流入し、株や土地への投機ブームが起こった。これがバブルの原因だが、地価の高騰などが社会問題化した。1989年末に日本銀行総裁に就任した三重野康(4/15)は翌90年8月まで3回にわたり公定歩合の引き上げを行なったことから、「バブルつぶし」「平成の鬼平」と国民からもてはやされることになる。もっとも当の三重野は、公定歩合引き上げについて、地価抑制の効果はあるのだろうが、それ自体を目的に行なったわけではないという意味の発言をしているのだが。

 池波正太郎の時代小説の主人公に由来する「平成の鬼平」というネーミングは、国民の三重野への期待を反映したものだったのだろう。同時期には、政界にもユニークなニックネームを持った政治家が存在した。たとえば社会民主連合社民連)の楢崎弥之助(2/28)は、独自に入手した資料にもとづく安全保障・防衛問題、汚職への追及で知られ「国会の爆弾男」と称された。リクルート事件が持ちあがった1988年には、自身がリクルートの子会社の社員から、国会での追及に手心を加えてくれるよう贈賄を持ちかけられた様子をビデオで隠し撮りして公開している。

 一方、「政界の暴れん坊」と呼ばれた自民党浜田幸一(8/5)はやはり1988年、衆院予算委員長の立場から、ときの共産党議長を殺人者呼ばわりして委員長を辞任に追いこまれる。この発言はテレビ中継を多分に意識したものだったようだ。1993年の政界引退後はテレビ出演も多く、『TVタックル』での政治評論家の三宅久之(11/15)との丁々発止のやりとりでも記憶される。

 浜田は晩年、ツイッターを始めてあらためて注目されることになった。同様に将棋棋士(永世棋聖)の米長邦雄(12/18)もツイッターで人気を集めた。2003年に現役を引退した米長だが、2012年1月にはコンピュータの将棋ソフト「ボンクラーズ」との対局に挑むも敗れたことは記憶に新しい。

 米長はコンピュータとの対局以前に、アマチュアとの対局をネットで中継したことがあった。そこには、新しいツールを通じて広く将棋の面白さを知ってもらいたいという思いがあったはずだ。全日本男子バレーボール監督だった松平康隆(2011年12/31)もまた、1972年のミュンヘン五輪に向けて、公開練習やテレビアニメ『ミュンヘンへの道』の放映などによりファン層を拡大、金メダル獲得へのムードづくりを演出した。さらに日本バレーボール協会会長時代の1995年には、W杯を主催するフジテレビからジャニーズ事務所とのコラボレーションにより観客動員をはかりたいと提案され、「そういう提案を待っていた」と快諾したという。

 ジャニーズとの関係といえば、やはり前出の森光子が思い出される。ワイドショー『3時のあなた』の司会を務めたことでも記憶される森は、ドラマではない番組に出ることについて、放送評論家の志賀信夫(10/29)によるインタビューのなかで「山田五十鈴さんが、いま大根一本いくらって知らなくても、それは似合うと思うんです。私の場合そういうのは似合わないし、知りたいという欲望と願望もありますしね」と語っている(『テレビを創った人びと』)。浮世離れした山田五十鈴(7/9)と庶民派の森は同じ女優でもそのキャラクターは対照的だった。だが、映画出身でのちに舞台へ進出したこと、後年文化勲章を受章したこと、ついでにいえば本名が「美津」であることなど意外と共通点は多い。

 2012年はこのほかにも名優たちの逝去があいついだ。なかには互いに共演経験のある者も少なくない。たとえば二谷英明(1/7)は刑事ドラマ『特捜最前線』(1977年)で大滝秀治(10/2)と共演、二谷の葬儀には大滝も参列している。あるいは小沢昭一(12/10)はその映画デビュー作『広場の孤独』(1953年)で、当時全盛期にあった津島恵子(8/1)と共演している。津島はNHK連続テレビ小説『さくら』(2002年)で内藤武敏(8/21)と共演、ちなみに同作でナレーションを務めたのは大滝秀治であった。このほか、映画『男はつらいよ』シリーズ全48作を通じておばちゃんこと車つね役を演じた三崎千恵子(2/13)、日本の女優として初めてヌードになった馬渕晴子(10/3)、海外では映画『エマニエル夫人』(1974年)に主演したオランダの女優シルビア・クリステル(10/17)も亡くなっている。

 日本映画界で長年、録音技師を務めた橋本文雄(11/2)が携わったあまたの作品のひとつに『幕末太陽傳』(1957年)がある。川島雄三が監督した同作には、川島作品常連の小沢昭一のほか、デビューまもない二谷英明も出演していた。のちの作家・藤本義一(10/30)はこの映画に感動して、川島に弟子入りしている。

 藤本は、直木賞を受賞した『鬼の詩』(1974年)が明治時代の落語家を主人公にしたものだったことからもうかがえるように、演芸にも造詣が深く、新人コンクールなどで審査員を務めたほか若手漫才師の勉強会「笑の会」を主宰し、同会からは太平サブロー・シロー(2/9。コンビ解消後「大平シロー」となる)などが輩出された。なお藤本が司会を務めたテレビのナイトショー『11PM』には、1973年末、「女のみち」を大ヒットさせた歌謡グループ「宮史郎とぴんからトリオ」の元メンバーが出演している。このときグループはすでにリーダーの並木ひろしと、宮史郎(11/19)とその兄の宮五郎による「ぴんから兄弟」とに分裂しており、番組内では握手して和解を演出したものの、ついにトリオに戻ることはなかった。

 マンガ家・土田世紀(4/24)の『編集王』(1994年)に登場するマンガ誌の副編集長「宮史郎太」は宮史郎をモデルにしたキャラクターだった。マンガ業界を舞台にしたマンガはおそらく梶原一騎原作による『男の条件』(1968年)あたりが嚆矢と思われる。梶原の実弟真樹日佐夫(1/2)も兄と同様にマンガ原作を手がけ、その代表作には影丸穣也(4/5)と組んだ『ワル』(1970年)がある。同作の映画版には俳優の安岡力也(4/8)も出演した。

 土田と同じく宮沢賢治を愛したマンガ家・畑中純(6/13)は『まんだら屋の良太』(1979年)で、架空の「九鬼谷温泉」を舞台に男女の愛欲を情感たっぷりに描いた。マンガの文化史的価値に早い段階で気づいた内記稔夫(6/1)は、1978年に現代マンガ図書館を設立、2009年にはその所蔵資料を明治大学に寄贈している。メビウスペンネームでも知られるフランスのマンガ家ジャン・ジロー(3/10)は、大友克洋宮崎駿など多くの日本人作家に影響を与え、日本マンガの国際化を語るうえでも欠かせない存在だ。晩年の手塚治虫も彼に対抗意識を抱いていたという。

 映画評論家の石上三登志(11/6)の『手塚治虫の奇妙な世界』(1977年)は、単なる作品論ではなく、キャラクターや様々な要素から手塚の作品世界を考察したサブカルチャー評論の先駆ともいえる。石上とは同世代にあたる三宅菊子(8/8)も1960年代よりライターとして活動を始め、1970年には女性誌『an-an』の創刊に参加、同誌の文体をつくったのは彼女ともいわれる。同じくライターで編集者の川勝正幸(1/31)は1982年に入社した広告代理店でのPR誌編集から、やがてコラム執筆やテレビ出演と活動範囲を広げ、音楽におけるリミックスにも通じる手法で映画パンフレットなどあらゆるものを編集してみせた。同日に亡くなったアメリカの美術家のマイク・ケリー(1/31)もまた、過去の有名なパフォーマンスの再現やミュージシャンとのコラボレーションなど、川勝との共通点が見出せる。

 前出の小沢昭一は1970年代、『an-an』を片手に若い女性たちが日本の観光地を旅してまわるのを横目に、各地で消えつつあった放浪芸を記録してまわり、それをレコードや著書を通じて紹介した。そのなかで芸能者としての自分自身の立ち位置をも見つめなおした。

 歌舞伎役者の中村勘三郎(18代目。12/5)は、「コクーン歌舞伎」や「平成中村座」、あるいは同世代の劇作家と組んだ新作歌舞伎など次々と新しいことに挑戦しつつも、常に伝統の重みを意識していた。定番の歌舞伎の演目についても、元の台本にあたることで現在の上演でのセリフや設定との違いを発見し、平成中村座の公演などではあえて原作通りに戻すという試みも行なっている。

 しかし小沢や勘三郎といい、俳優の地井武男(6/29)といい、病気療養のため休業してまもなくして急逝する芸能人の目立った一年だった。ミュージシャンの桑名正博(10/26)も、脳幹出血で倒れ意識不明のまま帰らぬ人となった。桑名のヒット曲「セクシャルバイオレットNo.1」(1979年)と同じく筒美京平作曲による「また逢う日まで」で1971年の日本レコード大賞に輝いた歌手の尾崎紀世彦(5/31)も、一時失踪が噂されつつ実際には1年前から入院していた。

 ちなみに「また逢う日まで」には、尾崎が歌う以前に、同じメロディながら歌詞もタイトルも歌い手も違う2つのバージョンが存在した。いわば3度目の正直で大ヒットとなったわけだ。歌も人も国も、何度でも再チャレンジできる世の中であれ。年も押し迫り、元首相が何年かぶりに返り咲いたのを見たばかりだけによけいそう思う……などと書いているうちに、そろそろスペースが尽きようとしている。二人でドアを閉めて、ではなく、一人で原稿を締めたところで、また逢う日まで。最後に、ここにあげたすべての人たちにあらためて哀悼の意を捧げます。
  (初出 「ビジスタニュース」2012年12月27日)

「物故者記事2008〜2012年」転載のお知らせ

 ウェブサイト「cakes」での拙連載「一故人」の今年最後の更新にて、この1年間に亡くなった著名人を振り返ってみた。

 同様の記事はこれまでにも、2008年から毎年、ソフトバンク クリエイティブメールマガジンビジスタニュース」にて掲載してきた。同メルマガは、のちにソフトバンク クリエイティブのサイト内へと移行し、過去の記事もあわせてそこで公開されていた。しかし、担当の編集者氏がほかの会社に移ったこともあり、現在では閲覧できなくなってしまっている。
 そこで、昨年より前の5年分は、こちらのブログのほうに転載することにした。きょうはまず2011年と2012年の2年分を転載し、以後の3年分は、大晦日までに1年ごとに過去へとさかのぼっていく形で順次公開していきたい。

東京はなぜ敗れたのか――総評・2016年オリンピック招致+ひとつの提案(2009年12月)

  • 「失政隠し」のイメージが最後までぬぐえず

 2009年10月2日、コペンハーゲンデンマーク)でのIOC総会にて行なわれた2016年夏季オリンピック最終選考において、東京はシカゴ(米国)に続いて落選、リオデジャネイロ(ブラジル)がマドリード(スペイン)との最終決選で勝利して開催地の座を獲得した。
 東京の落選直後には広島・長崎の両市が2020年五輪の共同開催を発表、さらには東京都の石原慎太郎知事も再度の立候補への意欲を語った(2009年11月9日)。
 2020年夏季オリンピック招致をめぐって早くも駆け引きが始まっているわけだが、いったい東京はなぜ負けたのか、その敗因分析もまだちゃんとなされていない段階でこのような動きが出てくるのはあまりにも気が早すぎやしないか。
 メディアでは敗因分析もいくつか見られる。だが、私が思うに、今回の東京の最大の敗因は東京都民から支持を得られなかったことであり、不支持だった人の多くは、都知事である石原慎太郎が提案したものだということに最後まで引っかかりを感じていたために支持できなかったのではなかろうか。
 ただ、オリンピック招致を誰が言い出したかなんて、あとになってみれば、誰も気にもとめないかもしれない。実際、1964年の東京オリンピックが歴代知事の誰によって提唱され、誰のもとで開催されたかなんてことを覚えている人は少ないはずだ(ちなみに東京オリンピック開催時の都知事東龍太郎は、スポーツ学者ということでシンボリックに知事に担ぎ上げられた人物であり、実質的な政務は副知事の鈴木俊一〈のち都知事〉があたったといわれている)。
 にもかかわらず、今回のオリンピック招致はあまりにも石原都知事と重ね合わせられすぎた。また時期も悪かった。
 すでに、石原の手で鳴り物入りで設立された新東京銀行が深刻な経営危機にあったほか、自称画家の四男を都の経費で外遊させ、その作品を数百万円で買い上げさせたという“公私混同”も発覚していた。2007年に辛くも知事三選を果たしたものの、2016年五輪への立候補表明を“失政隠し”と受け取る人も少なくなかったのではないか。そこからしてボタンのかけ違いだったような気がする。
 結果的に、2016年五輪開催を逃したことも石原の失政につけ加えられることになってしまった。今後、石原がいくら五輪への再挑戦を語っても、都民から多くの支持を集めることはますます望み薄だろう。もっとも、べつの誰かが同じことを言い出しても、よっぽどうまく提唱しないことにはかなり難しいこととは思うけれども……。いったい、オリンピック招致の機運を高めるにはどうしたらよいのだろうか。

  • 「成熟社会でのオリンピック招致」という矛盾

 今回のオリンピック招致はもともと、2016年を目標とした東京全体の都市計画を進めるなかで出てきたものだった。ようするに、スポーツ振興が先にありきというわけではなかったことになる。
 都市開発の起爆剤として企画されたビッグイベントといえば、開発中の臨海副都心での開催が予定されていた「世界都市博覧会」が思い浮かぶが、あれは開催中止を訴えて都知事選に勝利した青島幸男の登場で中止に追いこまれた。果たして、あのときの教訓が今回のオリンピック招致にどのくらい生かされたのかどうか。
 東京オリンピック招致では、成熟した都市や社会のなかでオリンピックを位置づけることが懸案となった。しかし、発展途上の未成熟な社会では、オリンピックや博覧会のようなイベントが国民の一大目標となることはありえるだろうが、成熟した社会では、それこそ価値観が多様化しており、自治体や国の呼びかけで人々が一致団結ということはまずないはずだ。そこに、今回のオリンピック招致の根本的な矛盾があったような気がしてならない。
 もはやこのようなトップダウン型のオリンピック招致というのはありえないのではないか(なお、トップダウン型という点では、東京と、広島・長崎の五輪招致とのあいだに違いはない)。ここは市民が自発的にオリンピック開催を望むのを待つしかないのではないか。いや、ただ待つのではなく、そう思わせる環境づくりというものが必要だろう。となると東京都も含めた自治体や国には、人々がスポーツに日常的に親しむような環境整備が、求められてくる。
 やや話ははずれるが、さる11月に行なわれた、鳩山内閣行政刷新会議の「事業仕分け」では、日本オリンピック委員会JOC)の選手強化事業費を含む文部科学省のスポーツ予算要求が縮減と判断された。これに対してオリンピックのメダリストたちなどからは反対の声があがったことは記憶に新しい。
 たしかに、オリンピック選手の強化にはかなりのお金が必要だということはわかる。だが、もっと長いスパンでとらえるなら、むしろ、一部の選手に予算を投下するよりは、地域スポーツの振興のために税金を投入したほうが、スポーツ人口の裾野を広げ、将来的に優秀な選手を多く輩出する可能性もより高くなるのではないか。
 もちろん、オリンピックでの選手の活躍が、若い世代にスポーツを始めようという動機づけとなることはあるだろう、だからこそ予算を削っては困るという意見もわからなくはない。だが、スポーツをしようと思い立っても、それをやる場がなければなにも始まらないではないか。
 そう考えていくと、東京都主催の東京マラソンは、スポーツ環境づくりのまさに第一歩といえるだろう。石原慎太郎の政策でほぼ唯一、無条件で評価に値するのは、この大会を実現したことではないか。今後、東京がふたたびオリンピック招致に挑戦するとして、まず、東京マラソンを一過性のブームに終わらせず、都民のあいだに定着していくことは欠かせまい。

 個人的に、スポーツ振興の策として一つだけ提案しておきたいことがある。それは、「秩父宮記念スポーツ博物館」のリニューアルだ。
 国立霞ヶ丘競技場内にあるこの博物館は、昭和天皇の弟で、登山などスポーツを趣味とした秩父宮雍仁を記念して設立された、日本で唯一のスポーツ専門の博物館である。
 だが、オリンピック関連の資料など、日本のスポーツの歴史において重要な品々の宝庫にもかかわらず、経営はなかなか厳しいようだ。
 それが証拠に、私が2000年のシドニー・オリンピック開催中の頃に出かけたら、1996年のアトランタ・オリンピックについて、「この大会で日本選手が10個以上の金メダルを獲得すれば、日本五輪史上総計で100個目に到達する」という説明板を見つけた。この時点ですでに終わっている大会についての説明なのに、なぜ未来形なのか(しかもアトランタでは10個も金メダルがとれなかっただけによけいに恥ずかしい)。こんな小さな説明板を変えられないほど、経営が逼迫しているのかと驚いたものである。
 さらに、それから何年かのちに、同博物館の図書館(博物館本体とは同じ競技場内ながらやや離れた場所にある)を利用したときには、職員の方から直接「予算がないので……」という言葉を聞いた。ちなみに、この博物館を運営しているのは、日本スポーツ振興センターという独立行政法人である。同センターは「スポーツ振興くじtoto)」の運営でも知られる。
 ともあれ、そんな経営状態にある博物館でも、展示のしかたしだいではもっと多くの集客を望めるのではないだろうか。
 というわけで、ここでは、どうすれば博物館に人を呼び込めるか、私が考えたアイデアをいくつか箇条書きしておく。

【1】スポーツ殿堂(すでに殿堂のある野球やサッカーは除く)を創設し、各種競技から貢献者を毎年選出して表彰する。
【2】野球場でいうネット裏のような観覧席を博物館内に設け、サッカーなどの試合開催時には臨場感あふれる観戦ができるようにする。
【3】展示内容も大幅に変更する。たとえば、1964年の東京オリンピックの記念館を博物館内に設置してみたらどうだろう。
 そこでは競技に関する展示は当然として、オリンピック開催によって東京の街は、日本の社会はいかに変わったかを説明する展示も行なう。たとえば、ジオラマや映像を使って、競技施設の建設や交通機関など周辺整備が進められる過程を表現してみたら面白いのではないか。
 さらに、これは【2】と連動した企画だが、1964年の東京オリンピックでの競技の模様を、最新鋭の映像技術を使って現在のスタジアムに再現することはできないか。たとえば、2016年のオリンピック開催地選考にあたり東京のオリンピックスタジアムの建設予定地を視察したIOC委員らは、東京都の用意したゴーグル型の映像装置を装着して、実施の風景にCGによるスタジアムを重ね合わせた映像を見ながら説明を受けたという。このゴーグル型の映像装置を、展示に導入してみてはどうだろう。
【4】博物館は単なる展示場にとどまらず、研究の拠点でもあることを考えれば、外部の各種データベースとも連動して、図書館機能の拡充をはかることも必要だろう。現在でも、スポーツ博物館の図書館はコンピュータ端末による検索システムも導入されないままでいる。この状態をどうにか打破できないものか。

 私からの提案は以上である。
 もちろん、どれもいますぐ実行に移せるというたぐいの企画ではないだろう。だが、たとえば博物館の企画として、国立競技場のスタジアムで来場者にくだんのゴーグル型の映像装置を試しに使ってもらいながら、東京オリンピックなどについてレクチャーを行なうといったことは、さほど予算がなくてもできるような気もする。
 スポーツに親しみを持ってもらうという意味では、この拙案はやや異色かもしれない。けれども、私のような文化系の人間にとっては、博物館や図書館といった施設を通してスポーツに歩み寄るのがいちばんの近道ということでこのような提案をさせていただいた。参考にしていただければ幸いである。
  (初出:『Re:Re:Re: 近藤正高雑文集』Vol.5、2009年12月)

 明日(9月8日)早朝にも、ブラジル・ブエノスアイレスでのIOC総会で2020年の夏季オリンピックの開催都市が決定する。せっかくなので、いまから4年前、2016年夏季五輪開催地の最終決戦での東京落選後に書いた拙稿(個人誌『Re:Re:Re:』にて発表)をここに再掲載しておく。
 ちなみに、東京の五輪誘致について、現在の私の立場は消極的支持といったところ。理由は、競技だけでない広義のスポーツ文化(そこには、下記の文中でとりあげたスポーツ博物館のような施設の運営・刷新も含まれる)に対し国家予算が投入されるには、日本の場合、オリンピックでも開催されないかぎりほぼ不可能だと思うから。もちろん、オリンピックが来る・来ないにかかわらず、スポーツに対し十分な公的支援が行なわれるのが理想ではあるのだが。