小泉内閣発足からきのうで3年が経ち、戦後の総理としては佐藤・吉田・中曽根・池田・岸に続く在任期間となった。そう考えるとやはり長いのだな。イラクでの人質拘束事件やら閣僚の年金不払い問題などが取りざたされている真っ最中にありながら、先日行なわれた3つの選挙区での衆院補選ではすべて自民党候補が勝ったわけだし(まあ、これは公明党様様というところが多分にあるんだろうけど)、このまま行くと7月の参院選も自民党の勝利(圧勝とまでは行かないまでも)となりそうな雰囲気である。
さて、総理の連続在任期間ということであれば佐藤栄作の7年8ヶ月が最長なのだけれど、通算在任期間でいえば桂太郎の7年10ヶ月がもっとも長い。それだけ長かったのにもかかわらず、今年百周年を迎えた日露戦争も、日英同盟調印も大逆事件も韓国併合も不平等条約改正も、すべてはこの桂太郎の総理在任期間中に起こった出来事だということを、つい最近までぼくはうっかり忘れていた。いや、正直にいえば知らなかった。だいたい、歴史の授業でもあまり彼の名が出てくることはないのではないだろうか? 日露戦争関連でいえば、ポーツマス講和条約に調印した小村寿太郎や日本海海戦を指揮した東郷平八郎といった人名のほうがよっぽど馴染み深い(何だかだんだん「天声人語」のような文体になってきたな)。
ちなみに桂が第4次伊藤博文内閣のあとを受けて初めて内閣を組んだのは、小泉内閣発足のちょうど百年前、1901年のことだ。それまでの総理が明治維新に貢献したいわゆる元勲と呼ばれる人物たちだったのに対し、桂は元勲の次の世代にあたり、その内閣は「二流内閣」とも呼ばれた(なお桂は弘化4年=1847年生まれで、明治維新を数え年で22歳の時に迎えた)。ここらへん、その発足時に従来の派閥からの脱却をしきりにアピールしていた小泉内閣と通じるものがあるかもしれない。さらにはかたや日英同盟への調印、かたや日米同盟の強調、あるいは1904年の日露開戦と2004年の自衛隊のイラク派遣と、両者の総理としての業績もどこか並行している――とかいうと、柄谷行人の「明治・昭和並行説」みたいな何やら予言めいたものになってしまうが。
それにしても、上記したように重大な事件に次々とかかわりながらも、現代から振り返るとやはりどうしても桂の存在感の薄さを抱かざるをえない。ただし例外的に桂の名が歴史上に大きく残る出来事として、彼が激しい批判の矢面に立たされた大正初頭の護憲運動がある(この時、民衆の先導に立ったのが尾崎行雄だった)。この護憲運動の盛り上がりによって四度にわたり断続的ながら政権を担ってきた桂太郎は総理辞任に追い込まれることとなる。世に言う「大正政変」だ。結局のところ、桂太郎の存在感の薄さというのは、元勲たちによる藩閥政治から、本格的な政党政治へと移行するちょうど過渡期に政権を担ったことに由来するのではないか。
さて、小泉内閣は桂内閣同様、本当の変革が起きる前の過渡的存在に終わるのか、それとも……。今後の動向に注目したい(と、最後も「天声人語」風に締めてみる)。