5年前にソフトバンククリエイティブの「ビジスタニュース」(当時は週刊メルマガだった)に寄稿した拙稿「“広告ブーム”の総仕上げとしての細川政権」を、先頃、ウェブのほうに再掲載していただいた(こちら)。この記事を書くまでの経緯などについてはすでに当ブログのエントリに書いているので、それを参照していただくとして、ここでは発表後に新たに知ったことなどを書き留めておきたい。
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当該記事では、細川護熙が1992年5月(ちょうど20年前!)に結成した「日本新党」の肝心の命名者について書いていない。単に私が知らなかったからだが、その後、たまたま手に取った本で事実を知ることになる。その本とは、コピーライターの仲畑貴志の著書『この骨董が、アナタです。』だ。同書の講談社文庫版の巻末には、「解説にかえて」と題して細川が寄稿している。その文章によれば、細川は、新党を結成するにあたり『文藝春秋』1992年6月号に載せる原稿「「自由社会連合」結党宣言」を見てもらうため、白洲正子(仲畑とは骨董を通じて知り合った仲だった)を介して仲畑と初めて会ったという。
このとき細川は仲畑に新党の名称をどうすべきか相談を持ちかけたところ、友人のコピーライター数人とホテルで合宿して考えようということになった。この合宿について、細川は驚きをもってこう書き記している。
ホテルの一室に丸二日籠って、四方の壁に大きな紙を張り巡らせて、「生きた言葉」と「死んだ言葉」とを振り分けていく。例えば「死んだ言葉」の中には「連合」とか「市民」とか、そんな言葉が次々と書き込まれていった。全部で一二〇〜一三〇はあったろうか、そんな作業の末に残ったのが「日本新党」という今までの政党の名前からすると、極めて異例かつ斬新な名称で、私ははじめその言葉を聞いたとき、「それはいささか国粋的にとられかねないのではないか」という危惧の念を持ったのだが、仲畑さんらは「日本」という言葉こそ、今最も新しく訴える力があるという考え方だった。日本という国のかたちを新しく変えていこうという姿勢、理念を誠に単刀直入、そのままに打ち出したものだった。
(『この骨董が、アナタです。』講談社文庫、2003年)
これは広告コピーのつくり方をそのまま踏襲したものといえるだろう。かくして日本新党という名称は同年5月22日に細川自身によって発表され、同党は政治団体として正式に発足した。
既存の大政党の名称には、自由民主党にせよ社会党にせよ共産党にせよ、党を主義に換えればそのままイデオロギーを表すものが多かった(例外は公明党ぐらいだろうか)。そのなかにあって、1993年前後に登場した新党には、日本新党のほか、新生党にせよ新党さきがけにせよ、イデオロギーを感じさせないネーミングが目立つ。
なお新生党という名称は、党首である羽田孜が親交のあった作曲家の三枝成彰、アートディレクターの浅場克己、そしてコピーライターの眞木準とともに考案したものだという(東京コピーライターズクラブ編『コピー年鑑1994』にも収録されている→参照)。ただし、このときイニシアチブを握ったのはやはり本職である眞木だろう。眞木は「でっかいどぉ。北海道」や「女は、ナヤンデルタール」などダジャレ風のコピーを得意とした。それを思えば、「新・政党」という含意を持つこの新党のネーミングも、彼が発案したものと考えるのが自然だと思うからだ。
ちなみに羽田は新生党から、非自民勢力を集結した新進党〜太陽党〜民政党を経て1998年に民主党に合流、このとき現在の同党のシンボルマークを浅葉克己が手がけている。
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当該記事では、熊本県知事時代、パフォーマンスを含むメディア戦略に積極的だった細川を、その後の長野県の田中康夫、宮崎県の東国原英夫などの「タレント知事」の先駆けとしてとらえてみた。記事発表ののち、タレント弁護士から大阪府知事に転身した橋下徹もこの系譜に位置づけることができるだろう。
とはいえ細川を上記の3人や、前三重県知事の北川正恭をはじめ1990年代から2000年代にかけて登場したいわゆる「改革派知事」ととらえるのどうも違うような気がする。
細川は知事在任中、熊本県立劇場の館長にNHKの元アナウンサー・鈴木健二を招致したほか、建築家の磯崎新をコミッショナーに招いて「くまもとアートポリス」というプロジェクトを展開した。これは1987年のベルリン国際建築展(ベルリンIBA)に触発され、翌88年より始まった長期的な都市整備・再開発事業であり、県内の公共建築の設計を、コミッショナーが実績にかかわらず、さまざまな建築家に委託するというものだ。
「都市にデザインを、田園にアイデアを」とのフレーズのもと、熊本県独自の「田園文化圏」を創造をめざしたというところは、1970年代末に大平正芳政権が提唱した「田園都市構想」を想起させたりもする。
このプロジェクトでは、「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」で伊東豊雄が初めて公共建築を手がけたほか、山本理顕や妹島和世らが世に出るきっかけをつくった。また、県下の清和村(現・美里町)では、石井和紘が設計した「清和文楽館」や「清和郷土料理館」などを村おこしの軸として活用し成功を収めている。
県下全域で、住宅や学校、公衆トイレ、公園、さらには橋梁などあらゆる建築事業を対象に進められた大規模なプロジェクトであった「くまもとアートポリス」は、上記のように建築史においても特筆すべきものであった。
だが、細川自身が次期知事選への不出馬を決めたこと(1991年)に加え、バブル崩壊後にあいついだゼネコン汚職により、公共事業そのものに対して風当たりが強まり、計画は失速していく。いっぽう、その手法についても次に指摘されるとおり、時代の趨勢とズレが生じるようになる。
大自然とクリエイターの発想力を融合させ、「田園文化圏」をつくるという試みは、空家や廃校、田園地帯にアートを仕掛け、地域文化を掘り起こす「越後妻有アートトリエンナーレ」(00年〜)や、「直島スタンダード」(01年〜)に引き継がれた。これらのプロジェクトにより新しい建物を作らなくても地域再生は可能であることが証明され、アートポリスの手法は前時代的なものになった。
(「おらが街のバブル くまもとアートポリス」、ぽむ企画責任編集『建築日和 01』エクスナレッジ、2007年)
「くまもとアートポリス」の行きづまりには、細川の発想や手法の限界も現れているとはいえまいか。1971年に朝日新聞記者から自民党所属の参院議員に転じ政界に入った細川は、同じく衆議院の新人議員だった小沢一郎とともに田中角栄に目をかけられていたという。その事実を踏まえるなら、従来の自民党的、田中角栄的な「ばら撒き行政」「箱もの行政」に文化的な味つけをして提供してみせたというのが、細川が熊本県知事在任中に行なったことの本質といえるかもしれない。
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いまひとつ、現時点で政治家・細川護熙の功罪を振り返る際に重要なのは、多くの若手に政界入りをうながしたことだろう。松下政経塾の評議員だった細川は、『文藝春秋』で新党構想をあきらかにした前後より、「閉塞感を打破するのに有力な新兵」として、その卒業者に目をつける。この時期、関東地区において中央政界入りをめざしていた山田宏(前杉並区長)、長浜博行(現内閣官房副長官)、松沢成文(前神奈川県知事)、中田宏(前横浜市長)、野田佳彦(現首相)ら同塾出身者に対して、細川は急接近を図っている(浅川博忠『「新党」盛衰記』講談社文庫、2005年)。
上記以外にも、1993年の総選挙で日本新党公認で初当選したなかには、前原誠司(民主党元代表、現政策調査会長。松下政経塾出身)、海江田万里(元経済産業相)、枝野幸男(現経済産業相・原子力経済被害担当相)、河村たかし(現名古屋市長)、小池百合子(現自民党衆院議員、元防衛相)などがいる。カッコ内に示したようにいずれも、その後、政権や地方自治体で重要なポストを担った人物たちである。
2005年の郵政総選挙および2009年の政権交代選挙ではそれぞれ当時の小泉首相、民主党の小沢元代表に共鳴する新人候補たちが大量当選して注目された。そこから「小泉ガールズ」「小沢ガールズ」という言葉も生まれたわけだが、ブームが去ったのち存在感の薄くなった彼らとくらべると、「細川チルドレン」たる日本新党出身の政治家たちの息の長さには驚かされる。息が長いばかりか、彼らの多くはその後離合集散を繰り返しつつも、現在政界の一大勢力を築くまでにいたっている。これは細川護熙の他人を見る目のたしかさというべきなのか、各政治家の言動を見るとそうも言いきれそうもないが……。どっちにしろ、日本新党の結党、細川政権の誕生は、現代の政治の原点のひとつであることはまちがいない。
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なお、政界引退後の細川が陶芸家として活動していることはよく知られているが、2011年には京都造形芸術大学の学園長に就任している*1。
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