Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

最古(おそらく)の岡崎京子論

現在発売中の『ユリイカ』8月号に寄稿した「みーんな投稿欄から大きくなった♪――サブカルチャー雑誌・投稿欄盛衰記」では、投稿雑誌『ポンプ』に高校時代の岡崎京子が熱心に投稿していたことに触れ、さらに《そのイラストには当時よりファンがおり、ほかの読者による「岡崎京子論」と題する投稿まで掲載されるほどだった》ということも紹介した。本文中ではとりあげなかったが、せっかくなので、くだんの『ポンプ』読者による「岡崎京子論」をここに転載しておきたい。おそらくこれは、岡崎京子を論じたものとしては、もっとも古いものではないだろうか。

岡崎京子
――あるいは、触覚のある少女について――京子の描く少女は「昆虫」である。昆虫にまつわる特質的イメージは、「本能」である。本能とは何か。それは「掛け替えの無さ」あるいは「ただそれだけのモノ、、」である。
 京子の描く少女は、よく笑う。しかし少女は決して笑っていない。口もとを「チーズ」と歪め、目を閉じているだけである。なぜ? 「本能」は、常に無愛想だから。
 「視線」は欲望である。本能の世界に欲望は存在しない。だから、少女の視線が、視線が生れる以前の世界、つまり自己の内側内側へと(自己の本能へと)向かう。したがって京子の描く少女は必然的に「寄り目」(複眼)となる。
 少女は、どんな服を着ても似合わない。どこかしら必ずアンバランスである。(このアンバランスさが、少女のコケティッシュを生んでいる)なぜだろう。それは、服というものが「社会」だからである。「社会」と少女が似合うわけがない。少女に似合うのはただひとつ、リボン(触覚)だけ。
[A ♂ 横浜市
 ――『ポンプ』1981年9月号

少女を「昆虫」にたとえて論じているところには、ふと『玉姫様』の頃の戸川純を思い出したりもする*1。しかし、1984年リリースの『玉姫様』より、この文章は三年も早い。1981年の時点で、その後戸川純が提示するような一種の少女像を、まだ雑誌の一投稿者にすぎなかった少女のイラストから見てとったという意味で、この文章を書いた人物はかなりの慧眼の持ち主のようにも思える。この「A」を名乗る男性は、24年後のいま、何をしているのだろうか。
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そういえば、80年代には「昆虫世代」という言葉も出てきたんじゃなかったっけ? と調べてみたら、以下のような説明が掲載されたサイトを見つけた。

今から20年前の経済広報センター便り(1983年7月号)に昆虫世代論が展開されていた。第一世代はベビーブーム世代で漫画やビートルズの世代である。第二世代はしらけ世代で,ここまではアナログ人間である。第三世代は情報世代でデジタル人間である。続く第四世代はコンピュータ世代と言うことになるだろう。この第三・第四世代を昆虫世代と称している。この世代はデジタル的で,水平的価値観や面的情報伝達の特徴を持っている。自らは堅い殻(甲羅,個室というシェルター)で覆われており,心と心のふれあいができない世代である。10年間隔の世代論とすれば,第四世代は(引用者注――現在の)20代から30代ということになるだろう。
 ――井口磯夫「本当ですか? 「転落誘う情報機器」」、「学情メールマガジン」2004年4月30日付(http://www.gakujoken.or.jp/news/merumaga70/merumaga70.htm

ほぼ同時期に流行した「新人類」という言葉にも同様のことが言えるが、「昆虫世代」というネーミングには、新たに登場した世代を非人間的な存在としてとらえてしまう、当時の大人たちの畏怖みたいなものを感じる。

*1:アルバム『玉姫様』に収録された「蛹化の女」のなかで戸川純は「樹液すする、私は虫の女」と歌い、さらに同じフレーズを自身の著書のタイトルに用いている