「千葉と青春の旅立ち――政治家・森田健作の遍歴」補遺

 遅ればせながら、先に予告したとおり、メルマガ「週刊ビジスタニュース」4月8日配信分に寄稿した拙文(すでにウェブ上にも転載されています)で書ききれなかったネタもろもろを以下にあげておきます。
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 1996年、橋本内閣の沖縄開発庁政務次官を務めた森田は、沖縄の無人島の開発構想を掲げた。以下、当時の雑誌記事での発言より。

 沖縄には無人島が百十一ある。知ってた? オレも知らなかったよ。沖縄は日本のハワイ。無人島ツアーですよ。ウルトラマン島とかセーラームーン島だとか。もちろん極端な話ですが。子供を引っ張れば大人が三、四人くる。パイナップル島、青春アイランドを造って明るく楽しい島にしなきゃ。             
 週刊読売』1996年2月4日号

 おそらく子供ウケをねらったのだろう、「ウルトラマン島」や「セーラームーン島」といったネーミングがすてきだ。もっとも、この構想が実現したという形跡はない。
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 森田が設立した社会人野球チーム「千葉熱血MAKING」には半年ほど、ナックル娘こと吉田えり(現・神戸9クルーズ)が所属していたことがある。彼女と森田についてはテリー伊藤が昨年末、週刊誌の連載で次のように紹介していた。

 この前、森田さんと会ったとき、彼女がすごい頑張り屋さんだったという話を聞いて、ドラフトで指名されたのも納得できました。女性ということで、きつい練習をパスさせようとしたら、逆に「男の人と同じようにやらせて」とムキになるタイプだとか。根性の座ったオンナなんですね。アンダースローから独特のナックル・ボールについても、「ホント、揺れながら落ちるし、ワンポイントだったらプロでも通用するかもしれない」と語っていましたが、森田さんの言葉なら説得力がありますね。楽しみです。
 『週刊大衆』2008年12月22日号

 野球がらみでさらにさかのぼると、森田健作は1991年に中日ドラゴンズの当時のエース、森田幸一の応援歌「モリタはスゴイ!」を、やはり同姓の森田公一とともにリリースしている。ちなみに当時の雑誌記事によれば、森田健作は「野球音痴」だったとか。
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 近年「改革派」と呼ばれる知事には、森田も含め「体育会系」が妙に多いような気がする。石原慎太郎はヨットやサッカーをはじめあらゆるスポーツをこなし、東国原英夫ハンドボール(高校時代にインターハイ出場経験あり)、橋下徹ラグビー(同じく花園出場経験あり)といずれも体育会系である。こうなると、選挙で投票するときには、候補者を思想信条や、党派とか無党派などで分けるのではなく、「体育会系」と「文化系」と分けたほうがよっぽど選ぶ基準になるのではないか、という気すらしてくる。
 橋下徹といえば、森田の当選の翌日、「スーパー知事の誕生。全国の知事にとって、ものすごく力強い。これで(全国)知事会の発信力がものすごくなる」(参照)とコメントしたそうだが、あんたは森田の対抗馬だった白石真澄を応援していたんじゃなかったのか。何という日和見
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 80年代、森田は「青春の巨匠」と呼ばれ、あらためて注目されることになる。その契機は、1984年に放映の始まった深夜番組『ミッドナイトin六本木』(テレビ朝日系)への出演だった。同番組で、若者たち相手に人生相談のコーナーを担当したところ、これが人気を集めたのだ。
 後年、彼は雑誌で、テレビを通じて友達ができないと悩んでいる若者が結構多いことを知り、青少年の作法を教える「森田塾」を開くにいたったと語っていたが、それはおそらく『ミッドナイトin六本木』での経験を指すのだろう。
 80年代は、表層では大真面目なものを笑うことが流行る一方で、深層においては、森田健作が受け入れられる時代でもあった――ということもできるかもしれない。
 このことと関連して、80年代当時「新人類」の代表だった中森明夫がこんな発言をしていたので引用しておく(出典は、筑紫哲也編集長時代の『朝日ジャーナル』での連載対談「新人類の旗手たち」)。

 最近、森田健作さんっていう人にすごく興味があるんですよ。なんで興味あるかと言うと、やっぱりあの人の前には、伏線として『スチュワーデス物語』というのがあったと思うんです。
 つまり、ものすごく大真面目ドラマを、今の子供たちが笑っている。ものごとの見方のパラダイムが変換されていると言われているんですけれども、そうじゃなくて、冗談で見てて、ついマジになっちゃうとか、笑っているうちに泣いてしまうとか、そういう複雑なことをやっていると思うんですよ。
 で、森田健作さんというのは、ほとんどそういう時期に現れた不思議な人で、最初、やっぱり森田さんが出ることを笑ったんですね。ところが、それが笑いながら泣いたり、泣きながら笑ったりとか、一ひねりが二ひねりになってきたりすると、彼自身の存在がわからなくなってきて、今をすごく象徴している人だと思うんですよ、森田健作さんは。
 結局、みんな結構マジにものごとを考えたいんですね。つまり泣きたいわけですよ。ただ、泣きたいけど、とりあえずみんなの前では泣けない。みんなの前で泣いたりとか、マジになることってダサかったりカッコ悪かったりする。
 筑紫哲也編『新人類図鑑 PART 1』(朝日文庫、1986年)

 80年代の森田に対して若者たちの抱いていたという、一ひねり二ひねりした感情はいかにもこの時代っぽいような気もする。ひるがえって、いまやそのひねりすら失われ、多くの人たちにとって森田はストレートに共感する対象になってはいまいか? もしそうだとするなら、ちょっと空恐ろしくなる。
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 前述の「森田塾」の拠点として、森田は1990年に千葉県芝山町に農地を取得し、「森田農場」を開設している。芝山町といえば、成田国際空港のすぐ南側に位置し(その上空は空港を離着陸する飛行機の航路となっている)、空港反対同盟に参加した住民の数では成田市についで二番目に多かった町だ。
 でもって、国会時代の森田が自民党幹部からの比例区への移行要請を蹴ってまでこだわった選挙区は、出身地である大田区を含む東京2区。大田区内にはご存知のとおり羽田空港がある。
 2000年の総選挙での当選直後、彼は自分の選挙区にからめて次のように自身の政治観を語っていた。

 選挙区である大田区のことでいえば、いまは「羽田空港の国際化問題」に取り組んでいるんですけど、空港っていうのは、利用者の利便性を第一に考えなきゃいけないと思っているんです。そのかわり、利便性がませば、利用者の負担も大きくなっていくという――そういった原点からいろんな物事を積み上げていくのが政治家の仕事なんじゃないかと。
 BIG tomorrow』2000年10月号

 この発言自体はごくごくまっとうで、とくにおかしいところはない。ただ、かつての選挙区である大田区と、「森田農場」のある芝山町と、くしくも(というべきか)二つの空港の近隣地域に森田が地盤を持っているという事実にはちょっと引っ掛かりを感じないでもない。というのも、今回の知事選にあたって彼は、マニフェストに成田・羽田空港間のリニアモーターカーの実現をあげていたからだ。これって、田中角栄のようなタイプの政治家ならきっと「利益誘導」のそしりを受けていたんじゃなかろうか。イメージというのはやはり大事である。
 それはともかく、私がもし森田のブレーンだったら、成田と羽田の共存を訴えるのであれば、両地域との縁の深さをもっと強調し、さらにはそれぞれの土地の歴史にも言及して*1、その上で具体的に何が考えられるか――いきなりリニア構想をぶち上げるのではなく――千葉県民に議論を喚起するべきだと提言したいところだが。
 リニア構想についてはまだいろいろと疑問があるのだが、それはまたエントリをあらためたい。
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 「首都圏連合」といいながら、森田やあるいは神奈川の松沢成文知事(もともとの言いだしっぺはこの人らしい)が参加を呼びかけているのはいまのところ、東京・千葉・神奈川・埼玉のいわゆる南関東の都県だけなのはどうしたことだろう。首都圏といえば通常、先述の4都県に加えて茨城・群馬・栃木の北関東、さらには山梨や静岡東部あたりまでが含まれるはずなのに。千葉県知事だったらせめて、隣県の茨城には声をかけるべきだと思うが、いまのところその気配はない。結局、「首都圏連合」といいながらその実質は、石原慎太郎といわゆる改革派知事による「お友達連合」なのではないか。

*1:たとえば、もともと住んでいた人たちを排除して空港が建設されたという点では、羽田も成田も似たような歴史的背景を持つわけで。