“西武文化人”としての手塚治虫

きょうは手塚治虫の命日(十九回忌)でした。
ところで、きのう埼玉県に初下車した私は、浦和の書店で『球界地図を変えた男・根本陸夫』(浜田昭八・田坂貢二著、日経ビジネス人文庫、2001年)という本を買いました。根本陸夫という人は、西武ライオンズダイエーホークスでいまでいうGMとして活躍した人物です。で、彼の評伝であるその本をパラパラ読みながらふと思ったのですが、西武ライオンズの球団マスコットはなぜ、手塚治虫の生んだキャラクターであるレオ(一部にはパンジャじゃないかという意見もありますが、それはひとまず置くとして)なのでしょうか?
いや、もちろん、ライオンズというチーム名から、多くの人が親しみをもってくれるようなキャラクターは何かを考えた結果、レオが選ばれたということは容易に想像できます。手塚治虫が亡くなった際の新聞記事でも、球団マスコット選定の経緯が次のように紹介されていました。

 西武は球団発足した昭和53年、「ライオンズ」の名前を生かすために、手塚さんの作品「ジャングル大帝」から主役の「レオ」を球団マークとした。福岡のチームを買収し、所沢に本拠を移すにあたって、全国の人気作りのために「レオ」の清潔なイメージを起用したもの。堤オーナーは当時を振り返って、「“レオ”の使用を手塚さんに了解していただけなければ、ライオンズの名前を変えようと思っていた」と話した。同オーナーは球団のイメージ戦略を「レオ」にかけたのだった。使用料は約3000万円だったという。
 ――『日刊スポーツ』1989年2月10日付*1

記事中に出てくる堤オーナーとは、西武の前オーナーの堤義明のことです。福岡時代から続いてきた愛称を、自らのもくろむイメージ戦略が実現できなければ変えることすら考えていたというのは、まあ堤義明らしいなとは思います。
それはともかく、上記の理由以外にも、レオが選ばれた理由はないのだろうか、と私はふと思ったのです。そんなことを思ったのは、トキワ荘のことを思い出したからでした。トキワ荘は、よく知られているように、まず手塚治虫が入居したのち、続いて寺田ヒロオ藤子不二雄赤塚不二夫石森章太郎といった多くの若きマンガ家たちが集った伝説のアパートです。このトキワ荘がどこにあったのかといえば、西武池袋線沿線の豊島区椎名町(現在はこの町名は残っていないようですが)でした。
さらに、手塚治虫がアニメーション制作のために設立した虫プロダクションがどこにあったのか、これまた思い出してみれば、西武池袋線沿線の練馬区富士見台と、やはり西武鉄道の路線の沿線なのです。
いや、これは単なる偶然なのかもしれない、もう少しきちんと調べてみよう……ということで、手元にあった『手塚治虫展』図録(東京国立近代美術館、1990年)の巻末に掲載された年譜を追ってみました。すると、手塚治虫は、関西から上京してから亡くなるまでのあいだ、次のように拠点を移動してきたことがわかりました。

  • 1952年 前年、阪大附属医学専門部を卒業。この年7月、東京に仕事の場を移し、新宿区四谷の八百屋の二階に下宿する。
  • 1953年 豊島区椎名町トキワ荘へ引っ越す。
  • 1954年 豊島区雑司ヶ谷並木ハウスへ引っ越す。
  • 1957年 渋谷区代々木初台へ引っ越す。
  • 1960年 前年に結婚。この年8月、練馬区谷原町(現・富士見台)に家を新築。
  • 1961年 6月、手塚治虫プロダクション動画部設立。翌年、虫プロダクションと改称、自宅敷地内に新スタジオが完成する。
  • 1974年 前年、虫プロ倒産。この年3月、杉並区下井草へ引っ越す。
  • 1976年 手塚治虫プロダクション(1968年設立)事務所が高田馬場に移転。
  • 1980年 5月、都下東久留米市へ引っ越す。
  • 1988年 4月、埼玉県新座市のスタジオが完成し手塚プロの制作部門が引っ越す。
  • 1989年 2月9日、千代田区半蔵門病院にて死去。60歳。

太字で示したとおり、手塚治虫トキワ荘に住んでいた頃や虫プロ時代にとどまらず、東京での活動拠点をほとんど西武沿線に置いているのです*2西鉄ライオンズ時代より福岡に本拠地を置いてきたライオンズが、西武鉄道に売却され、所沢に本拠地を置く西武ライオンズに生まれ変わった1978年当時も*3、手塚の自宅は西武新宿線沿線の下井草にあり、手塚プロも現住所の高田馬場(これまた西武新宿線沿線)にすでにありました。手塚はその後、東久留米市に引っ越すことになりますが、同市もまた西武池袋線沿線にあたります。
西武ライオンズのマスコットにレオが選ばれたのには、西武沿線にゆかりが深い手塚の作品だからという理由も、実はあったのではないか……と考えるのは、うがちすぎでしょうか。
これまで、手塚治虫というと阪急電鉄が開発した宝塚市出身で、子供の頃から宝塚歌劇を観て育ったことなどから、阪急文化圏の影響を論じられることが多かったのですが、こうなると西武文化圏と手塚の関係も考えてみる必要もあるのかもしれません。
結果的に、それまで全国的には知名度の低かった西武は(堤義明肝入りの西武鉄道のアイスホッケーチームは、すでに全日本選手権で何度も優勝している強豪チームだったのですが)、球団買収を機に全国区にのしあがることになります。その直接的な理由は、前身であるクラウンライター・ライオンズが前年のドラフト会議で得た当時の大型新人・江川卓との入団交渉権を引き継いだことにありましたが、マスコットとなったレオの影響力というのもバカにならないものがあったはずです。前掲の『球界地図を変えた男・根本陸夫』によれば、《そのマークをつけた系列バス会社のバスが全国を駆け回り、関連レジャー施設にもレオはあふれ返った》といいます。
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西武と文化というと、堤義明の異母兄・堤清二をトップとする西武流通グループ(セゾングループ)が、70年代以降、ファッションビルのパルコを全国展開するなどして先行した観がありますが、義明の西武鉄道グループのほうも、80年代に入って常勝チームとなったライオンズのほか、系列企業のコクド所属のスピードスケーター・黒岩彰(のちの西武球団代表)や、最近ではやはり系列企業のプリンスホテル所属のフィギュアスケート選手・荒川静香が活躍するなど主にスポーツの面でその文化を開花させました。その一応の集大成が、堤義明JOC会長時代に熱心に招致活動を行ない、西武グループの所有する土地で多くの競技が行なわれた長野オリンピックだったといえるでしょうか。スポーツ以外では、系列企業のとしまえん(企業名は豊島園)が、アートディレクターに大貫卓也を起用するなどして展開した一連の奇抜な広告も、西武鉄道グループの企業文化として特筆されます。
企業文化から離れれば、1970年代初頭に萩尾望都竹宮惠子が同居をはじめ、多くの少女マンガ家が集うことになった、いわば少女マンガ版トキワ荘の「大泉サロン」が西武池袋線沿線にあったり、押井守原作、おおのやすゆき作画で、その名も『西武新宿戦線異状なし』というマンガ*4が描かれていたりと、意外にも、というべきか、サブカルチャー的要素も色々と見出すことができます。そういえば、押井守とともに『機動警察パトレイバー』を手がけたゆうきまさみの『究極超人あ〜る』も、舞台は西武線沿線だったような記憶があります。
最後に、手塚治虫のこんな発言を紹介して、このエントリーをひとまず締めたいと思います。

 (引用者注―虫プロ設立当時)練馬にいたんですが、まだ周囲は田園地帯だったころで、そこにうちだけが夜っぴいて明かりがこうこうとついてるもんだから、練馬の不夜城って、名物だったんですよ。会議をしていると、隣から牛の声が聞こえてきたり、牛アブが飛んできたりしてね。まだクーラーもない時代でしたから夏なんかまるで蒸し風呂のような暑さ。で、この名前をつけたんです。“ムシプロ”は蒸し風呂から来てるんですよ。
 ――『スタジオL』(NHK総合、1987年3月3日放映)での談話(『グラフNHK』1987年5月号所収)

現在の西武鉄道の直接的なルーツは、西武グループ創始者堤康次郎の所有していた武蔵野鉄道がすでに存在した西武鉄道を吸収合併した結果、戦争末期の1945年に発足した西武農業鉄道(翌年、西武鉄道と改称)です。和久田康雄の『日本の私鉄』(岩波新書、1981年)によれば、西武農業鉄道は《その名にふさわしく戦時中の輸送力不足で困った東京都からの屎尿輸送の要請を率先して引き受け専用列車を走らせ、沿線各駅のタンクが一杯になるといちいち(引用者注―社員に)農家まで処分に廻らせた》といいます。
虫プロが西武沿線にスタジオをかまえ、やがて国産初のテレビアニメ『鉄腕アトム』を送り出すこととなったのは、戦後15年以上経ってからですが、まだ「西武農業鉄道」の名前から連想されるような風景が沿線には広がっていたのですね。

*1:『一億人の手塚治虫』(JICC出版局、1989年)より引用。

*2:亡くなる前年に完成したものの、本人はほとんど使うことはなかったという新座市のスタジオは、路線でいえばJR武蔵野線沿線ですが、晩年の手塚の自宅のあった東久留米から比較的近いということを考慮すれば、ここも西武の文化圏内と考えることもできるでしょう。ちなみに手塚の生前、1983年に全国で唯一の手塚プロ公認の鉄腕アトム像が建てられましたが、その所在地である埼玉県飯能市も西武沿線(池袋線秩父線)です。

*3:なお、球団のマスコットがレオが決定すると同時に、新たなユニフォームとチームカラーも発表されました。グラフィックデザイナーの細谷巖のデザインによるユニフォームはその後、ビジター用が1996年に、ホーム用が2004年に変更されるまで長らく使用されることとなります。「ライオンズカラー」と呼ばれる白地に青・赤・緑の帯を配したチームカラーは、2004年にユニフォームからは姿を消しましたが、現在も西武電車や西武バスなどで引き続き使われています。

*4:内戦中の首都圏を、主人公たちが「革命軍」から任務を受けて、西武新宿線沿いを西へ進む――というお話。