悲運の国鉄総裁とスワローズ誕生

 ちょうど60年前のきょう、初代国鉄総裁・下山定則が行方不明となり、翌日常磐線綾瀬駅付近で轢死体で発見された。いわゆる下山事件と呼ばれるできごとで、以後も国鉄をめぐっては、中央線三鷹駅での無人電車暴走(三鷹事件)、東北線松川駅付近での列車転覆事故(松川事件)と、奇怪な事件が続発している。これらの事件の背景には、GHQの経済安定政策であるドッジ・ラインに沿って行なわれようとしていた人員整理をめぐる国鉄労使間の対立があった。
 ちなみに下山は、後年、東海道新幹線開発に国鉄技師長として尽力した島秀雄と学生時代から親交があり、両者とも1925年に東京帝大工学部機械工学科を卒業後、鉄道省に入省している。
 歴代国鉄総裁のうち技術畑の出身者は、この下山を含め、青函トンネルをはじめ数々のトンネル工事に携わった第7代の藤井松太郎(在任期間は1973〜76年)、国鉄におけるコンクリート工法のパイオニアだった第9代の仁杉巌(同1983〜85年)と3人を数える。だが、藤井は1975年の「スト権スト」*1で政府と労組の板ばさみとなり、その責任をとって辞任、仁杉は国鉄の分割民営化の動きに対応できず、ときの首相・中曽根康弘に更迭され……というぐあいに、いずれも悲運の末路をたどっているのはどういうことだろう。
 もう一度、下山事件に話を戻せば、この事件は、同じ1949年にセントラルとパシフィックの2リーグに分裂したプロ野球にも少なからぬ影響を与えている。
 国鉄は翌1950年1月、両リーグではもっとも遅く球団(国鉄スワローズ)を結成、セントラル・リーグに加盟した。国鉄セ・リーグを選んだのは、パ・リーグの中心的存在で毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の親会社だった毎日新聞に対し、職員たちの反発が強かったためだといわれている。というのも、下山の死因をめぐり他殺か自殺かで新聞各紙の論調が割れるなか、読売新聞や朝日新聞は他殺説をとり、毎日新聞は自殺説をとったためだ。技術者で誰よりも鉄道を愛していた下山が、みずから鉄道自殺を選ぶはずがないと考えていた国鉄職員の多くが、毎日の論調に反感を抱いたのは無理からぬことだろう。
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 スワローズといえば、最近、ベースボール・マガジン社からこんなムックが出た。

 とはいえ、あくまでもヤクルトが親会社になってから40年を記念した本なので、それ以前の国鉄時代、サンケイ時代のスワローズ(ただしサンケイ時代の途中からヤクルトに経営が移って数年までの一時期の愛称はアトムズ)については申し訳程度にしか記述されていない。
 スワローズというチームとしては来年年明けにも誕生60周年を迎えるわけだが、そのときにもベーマガはちゃんとフォローしてくれるのだろーか。

*1:国鉄労働組合を中心とする公労協(公共企業体労働組合協議会)が、当時政府に認められていなかった国鉄など公共企業体ストライキ権の回復を訴えるべく行なった長期ストライキ