ライター堀井雄二はいかにしてゲームクリエイター堀井雄二になったのか?

 Twitterで、「専門学校のゲーム科の新入生に聞いてみたところ、堀井雄二の名を知ってる生徒がゼロだった」というツイートがちょっとした話題になっていた(まとめはここ)。
 堀井雄二がどんな人物かについては、5年ほど前に『ウラBUBKA』というサブカル雑誌のドラクエ特集号ですこし書いたことがある。調べてみたら、ドラクエ以前に、雑誌ライターの仕事で家を建てたというすごい経歴の持ち主だったと知っておどろいたことを思い出す。
 そんなわけで、せっかくの機会なので、くだんの原稿をここに再掲載しておきます。
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●ライター稼業で家を建てた男
 『ドラゴンクエスト』の生みの親である堀井雄二がもともとフリーライターだったことは、ファンにはよく知られた話だろう。『ドラクエ』に出てくる短いながらも、機知に富んだセリフの数々は、やはり彼がライターだったからこそ生み出せたのだと評価する向きも多い。彼自身、セリフだけで物語を進めるという方法をテレビゲームの世界に導入したという自負は大いに持っており、それが誰よりも先にできたのは、《あの当時、ゲームを作ってるのはみんなコンピュータ方面からからやってきたひとたちで、文章に関しては素人だったから。でもぼくはプロのライターだったんで、その点で勝てるのは、当たり前だったのかもしれない》と『CONTINUE』Vol.1(太田出版、2001年)のインタビューで語っている。
 堀井がライターとなる発端は、早稲田大学在学中の漫画研究会時代にさかのぼる。当初はマンガ家志望だった彼だが、大学2年の時に、KKベストセラーズの依頼で早大漫研の話を仲間とともに書いた本が6万部ほど売れたことから、文章を書くことの面白さを知る。その後も、漫研の仲間とは「冒険グループ」「うさぎ屋トライアングル」という名前で、それぞれ『いたずら魔』(KKベストセラーズ、1975年。同書は約20万部売れたという)と『いじわる特許許可局』(日本文芸社、1976年)という本を立て続けに出し、個人的にも文筆活動を始める。NET(現テレビ朝日)の『いたずらカメラだ!大成功』というテレビ番組でアイディアやギャグを考えたりする仕事をしていたのも、この時期のことだ。
 しかしそこへ思わぬ事態が起こる。大学4年の終わりに『漫画サンデー』の原稿取りのバイトでバイクを運転中に転倒し、大けがを負ったのだ。この大事故で、彼は一年間休学、淡路島の実家で療養生活を送る。堀井はこの事故について後年、《おかげで、テレビの仕事はパー。あの事故がなかったら、今ごろは放送作家やってたんじゃないかなあ》と振り返っているが(『週刊朝日』1990年2月23日号)、結局これが、彼がライター稼業を生業とする1つの契機となった。というのも1年後、堀井が大学5年に復学する頃には、仕送りも途絶え、自分で稼がねばならなかったからだ。
 うまい具合に同級生たちは順当に大学を卒業し出版社などに就職しており、そのツテもあって、事故前よりも彼の書く場所はグンと増えた。この時期の仕事は実に多岐に渡り、例えば集英社の少女雑誌『週刊セブンティーン』で芸能記事や「男の子に好かれる方法」などといった企画記事を書いたり、白夜書房のポルノ映画誌『月刊zoom-up』では「近未来七色入門講座」という連載エッセイを書いたりもしている。また『月刊OUT』(みのり書房)では、1979年に「はしらマラソン」という1行ネタ欄を執筆したのを皮切りに、「官報」「OUTジャーナル」、そして同誌の最長寿連載となった「ゆう坊のでたとこまかせ」と読者投稿欄を継続して担当する。
 こうして売れっ子ライターとなり、時には1日に3本の締め切りを抱え、月収も50万〜100万円はあったという堀井は、このころ結婚し、26歳にして都内に一戸建てを購入した。家を借りるのにさえ苦労しているフリーライターが多い中で、ライターとしての稼ぎだけで家を建ててしまった堀井雄二は本当に稀有な例だろう。

●マンガ原作への興味からPCに接近
 さらに同じ時期には、堀井はマンガ原作にも興味を持ち、「小池一夫劇画村塾」に入塾している。ここで彼は《キャラクターを起てるコツを学んだ》という(『エコノミスト』2001年3月20日号)。実は『ドラゴンクエスト』というタイトルもまた、小池の「濁音は強烈に印象に残るから、ダ行のタイトルはヒットする」という教えにヒントを得て、まず「ドラゴン」とつけ、それに聞きなれない引っ掛かりのある言葉として「クエスト」を付け加えたものなのだ。一方で堀井は本田一景というペンネームで、『探偵桃語』(三山のぼる画、1986年)など実際にマンガ原作も手がけている。
 こうしたマンガ原作への興味は、彼の目をパソコンへ向けさせることにもなる。ハーレクインロマンスの小説がコンピュータで書かれていると知り、パソコンでマンガ原作を書こうと思った堀井は、1981年に発売されたNECPC-6001というパソコンを、担当していた雑誌の投稿欄への膨大な投稿を管理するという名目で購入した。しかし買って3日ほどで仕事には使えそうもないことがわかり、仕方なくゲームを始めたところ、すっかりハマッてしまう。
 『少年ジャンプ』の編集者だった鳥嶋和彦と堀井が出会ったのは、ちょうどそんな時期のことだ。やがて同誌でもライターとして仕事を始めた堀井について、鳥嶋は《抜群に優秀》《原稿は完璧で、直しを入れる必要がまったくありませんでした。ただ、原稿が遅い(笑)。書くのに時間がかかるというか、なかなか仕事を始めないんですよ、遊んでいて》とのちに評している(『Big tomorrow』1999年11月号)。
 それから間もなくして、ゲームソフトの企画制作に乗り出したばかりだったエニックスが、第一回ゲームホビープログラム・コンテスト(1982年)を開いた。『ジャンプ』でこのコンテストを取材し記事をまとめることになった堀井は、自らもパソコンでつくったばかりだったテニスゲーム『ラブマッチテニス』を応募し、これが見事に佳作入選を果たしてしまう。
 ゲーム作家としてデビューしてからも堀井はライターを続け、当時『ジャンプ』の独擅場だったファミコン特集などを手がけた。だが、それもファミコンの専門誌の登場によって方向転換を余儀なくされる。そこで鳥嶋は、自前でゲームをつくり、その制作過程を随時誌面で紹介していくという企画を打ち出してきた。そのゲームこそ、『ドラクエ』だったというわけだが、その記事もまた堀井自身によって書かれることになる。ゲーム作家としての彼の仕事は、この時にいたるまでライター業と分かちがたく結びついていたのだ。

●堀井少年とゲーム作家・堀井とのあいだに
 堀井は少年時代から、何かを仕掛けて人を驚かしては、その反応を見るのが大好きないたずらっ子だったという。その精神は、『ドラクエ』をはじめ彼のゲームにも随所に現れているが、実はライター時代よりその片鱗はあった。たとえば……

 電話をかけた先が、あいにくと留守番電話だった場合、こんな手を使ってみよう。
 「こちらは○×警察署の者です。お帰りになりましたら、ただちに署まで出頭してください」
 (『いじわる特許許可局』)

 鉄人28号をいじめる。正太郎からリモコンボックスをうばい、鉄人にシェーをやらせる。アホの鉄人は正義のためだとシェ――。
 (『OUT』1979年8月号)

 彼のライター時代とは、そんないたずらっ子だった堀井少年と、ゲーム作家・堀井雄二とをつなぐ、いわば鎖のようなものなのではないだろうか。

  (初出:『ウラBUBKA』2005年1月号)